合理的帰結における合理性

蔵出しなのでかなり前に書いた中身なので、その辺は割り引いて読んでください。


ちょっと前に情報処理技術者試験に合格して調子に乗っている私でございます。


この試験では記述式の問題があったわけですが、基本的に「解ける問題をきちんと解く」をやってりゃ受かるわけですけども、記述式ってだけでなんとなーく苦手な感じがしていままで落ちてたなあ、なんてことも思ったわけです。
今回、勉強時間自体はそれほど多かったわけでもなく(わりと直前までドラクエやってたよね、と奥さんに指摘されました)、それでも合格はできたわけで、なにが違ったかなあ、というと過去問を中心にやったというあたりが違いました。
過去問のなにがそんなに役に立ったかというと、「こういう問題にはこういう回答をすればいい」のパターンの蓄積ができたことだ、と自己分析しています。まあ、試験問題は多かれ少なかれ「試験対策」としての「試験における回答の書き方」みたいなのがありますが、そこを重点的にやった、と。


実際の試験問題において、「前提Aがある」「条件Bがある」という前提・条件下における「回答C」というのは、あんまり選択肢ありません。「回答D」とか「回答E」の可能性はなくはないですが、合理性はあまり高くないわけで。これはまあ、きちんと前提Aと条件Bが設定されているから、ではありますが。
しかし、「回答C」の記述方法は千差万別、けっこうあれこれ書きようがあるわけですが、これをきちんと試験のテーマに沿って書こうとすると、普段の業務から離れて試験に即した書き方が必要になってきます。正直、こんな回答したら、意味は伝わっても業務的にはないなとか思いながら書いてました。まあ試験なんでぶっちゃけて書いてる、ってのが大きいわけですが。
身も蓋もない話ですが、ここまで直球で書けたら楽かもなあ、とかいうのは余談です。


これはTRPGにおけるシナリオにも同様のことが言えるんじゃなかろうか、と思ったわけです。つまり、「前提A」と「条件B」が明確であれば、自ずと「回答C」が導き出せるんじゃないか、と。
ところがどっこい、TRPGには「公式(officialではなくprotocol的な)」がないので、「回答C」を「自然に」導き出すための合理性・整合性がありません。「こうすればこうなる」といった方程式がないので。そしてそれを明確に伝えるための公式も、また存在しない。
言い方を変えれば、方程式を定めるための共通バックグラウンドがない。「1+1=2」というような基本的な方程式もなく、感覚的なものを感覚的に把握している限り、これはどーしよーもない。


この辺のギャップを埋めるのがシステムの役割だけど、物語においては、特に物語の選択においては、こうした方程式は存在しえないし適用しえないだろうなあ、というのが最近の諦観だったりする。のでなんともモチベーションが上がらないと。
究極的には、シナリオの記述フォーマットと、シナリオ進行のフォーマットという話になってくるわけですけども。それを受け入れられるか否か、という点において、自分自身はわりと抵抗ないなあ、と思うんですが、フォーマットの発生によって「そうしなければならない」といういままでとは別種のストレスが発生した場合、それに適応できない人はけっこういるんじゃないかなあ、と思ったりもする。
まあ、「自由なTRPG」有害論者なので、フォーマットの存在自体はウェルカムなんですが。それを構築するだけの能力がないのは苦々しいですなあ。

ルールと世界観

相変わらず完成しなさそうなシステム作成をしながら思ったことをつらつらと。


魔力、というのは、ルールから見たらパラメータ(変数)の一つに過ぎませんが、世界観的にはわりと大きな影響を与える要素です。
で、その位置づけをどのように考えるか、どちらを重視して性質を決定するか、というのはおそらくシステムごとに違うわけで。
私のスタンスとしては、世界観が主でルールが従である、というのが基本要件です。まあ、ルールの微調整のために世界観を微調整するぐらいはしますけども。


数値的なことを言えば、世界デザインよりも数値デザインのほうが、なんというかまあ、融通は効きます。固定値と乱数の関係にしたって、匙加減の問題でしかないわけですから。
システムの基本デザインとして考えれば、世界観によって匙加減を調整する、というのがまあ普通なのかなあ、というのが観念的にはありますが、要は「どのぐらいの強さが平均で、最大でどのぐらいで、最小でどのぐらいなのか」は成長率や成長ルールの調整で、「どのぐらいまで強くなれるのか」というのは、レベルキャップなりを追加すればいいわけです。
ルールというのは物理事象の記述法だという認識だと前に書きましたが、世界観には物理事象の法則も含まれるわけで、どうしてもルールよりも世界観が優越するんですが、たまによく、データの増加が世界観を裏切るというか破綻させることがあるように見える、というかルールをルールとして追及すると世界観を無視する構造がある、ということを感じます。
実際になにがそうであるかどうかは実はさして問題ではなくて、自分が作るものがそうであった場合、自分はそれをどう思うのか、というのが私にとっての問題です。なので、たとえばエンゼルギアのルールにはなんの意味があるのかなあ、とたまによく思うことは、別にどーでもいーんです。それはそういうものだという以上の感慨にはならないので。
他所様の作品については、たぶん、考え方が根本的に違うんでしょうし。物差しが違うのに、計測結果が違うと言ったところで、そりゃ物差しが違いますもんねえ、ということにしかならないでしょうから。そういうのは自由でいんじゃないですかね。


最近思ってることがあって、それは、TRPGゲーマーは、別にルールと世界観の整合性というものにはそんなに興味はないんじゃないかな、ということ。ルールはルール、世界観は世界観とわけているというか。成功値至上主義というか。中二病が激しかった頃、自分もそうだったなあ、と思うし、いまでもそんなに変わっちゃいないなとも思いますが、しかし、ルール自体がそれを求めているってのも大きいよなあ、とも思うわけです。
なんでしょう。変な表現になりますが、バランスが取れ過ぎているデータ、というのが一番簡単な言葉なんですけども。「このぐらいのレベルなら、このぐらいのボスデータでちょうどいい」みたいなバランスが行き過ぎると、一定以上のPC性能がなければボスは倒せないしシナリオ作成作法でもそういうボスを出すことが推奨されているようになっちゃってて(なぜならレベルに見合ったボスを倒さないと経験点があまりもらえない仕組みになってるから)、実は自由度なんてあんまりないんじゃないのかな、という形になっちゃってるというか。
もちろんそれは、判定というかルールの体系が戦闘に集約されるようになっているから、なんでしょう。そして、いわゆる見せ場の制御として、戦闘というのが、その他の場面よりも活躍を制御しやすいから、そうなるんでしょう……強い敵を倒すというのはわかりやすい活躍の場なわけですから。つまり、ただの消去法で戦闘に焦点が合ってる。


変な話、ユーザに一定以上の技量を求めないで見せ場を作ろうとすると、戦闘に焦点を合わさざるを得ないんだろう、というのが私の感想で、商業作品はそれでいんじゃね、っていうか当たり前じゃね、ということは最近思ってるので、まあそれはそういうもんだってことでいいんです。
ただ、そんな商業的な都合、販売的な都合にユーザがどこまでも付き合う理由も、またないわけで。そういうのは個人製作の領域でやればいいよね、と。
ということは。物語的TRPGというのは、そもそもがそうした、ニッチな領域でしか成立しない、つまり「誰でもわかりやすく遊べる仕組み」ではないのだとしたら、どっかのメーカがそういうルールを出さないというのは、まあ当たり前の話なんだろう、ってことです。そんなもん(作れたとしても)売れねえ。
よほど画期的な仕組みなら売れるのかもしれませんけど、どんぐらい画期的だったらいいのか、ちょっと想像しかねますなあ。


閑話休題


諸々の話をまとめると、最近はシノビガミに興味があるんですが、いまだに購入には至っていないのは、単なる怠惰ですよねすいません、というお話でした。
あの辺のシステムは勉強になりそうなんですけどねえ。見たら見たでパクッちゃいそうなんで怖くて見れません。

パターナリズムと物語

先のエントリになんかたくさんブクマがついてて、なんか気のきいたことでも書いたほうがいいのかしら、と思いつつ出来もしないことはしないと心に決めているのはもう若くないからなのかしら自分と思う私でございます。
そんなことはどうでもいいとして。
(まとめまで書いてから追記)相変わらず書きながら考えてるのでまとまりがありません。


行為判定の結果がどのような意味を持つのか。成功、失敗、という結果は明確に示すことができますが、これを受容する、というのはどういうことなのか。そしてそれは物語にどのような意味・影響を与えるのか、というようなことが気になりまして。
というのも、ルールというのは、言ってみれば第三者の審級に相当するかと思いますが(勉強不足なので第三者の審級については曖昧にしか把握できてませんが)、これによって、ルールによって導き出された結果には正当性が付与されることになります。
これは、事象に対する正当性であって、物語的・意味論的な正当性とは別のものです。(あえて大雑把に書きますが)ルールというのはゲーム世界内で物理的な事象の記述方法を統一する手法ですが、それの意味を解釈するのはルールの役割ではなく、参加者の役割になる。だからこそTRPGGMという裁定者を必要とし、要求してきた。誤解を恐れずに例えるなら、ルールと参加者の間を取り持つ裁判官のような役割として。
というのが現時点での私のルールに対する理解です。その視点からすれば、ルール(≒システム)による物語への介入というのは、パターナリズムによる個人の価値観への侵害ではないか、ということになる。

パターナリズム - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0

パターナリズム(英: paternalism)とは、強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益になるようにと、本人の意志に反して行動に介入・干渉することをいう。

問題なのは、たとえば教育がそうであるように、結果的に良い結果(=この場合は物語という生産物)を出せばそうした侵害は免責されるのか、免責されなくとも必要悪として容認されるのか、ということです。ルールによる物語化というのは、そうした問題を内包するのではないか、というのが引っかかっています。
もちろん、制約を受ける側が、介入・干渉を肯定する、ということはありえますし、そうした場合、これは問題にはならないでしょう。本人の意志に反していなければ、パターナリズムにはあたらないので。つまり、それを選択する自由が担保されているのなら、ルールによる物語化は「あってもいい」ということになる。


そうして成立した「ルールによる物語の形成」は、価値基準の統一を必然的に要求します。これは言い換えると、善悪の判断をルールに委任する、ということになる。私はどうも、これは受け入れがたい。というか、それはもう物語ではない、とさえ感じる。
もっとも、以前も書きましたが、TRPGは、世界観という形で価値基準を打ち出しています。なので、これにこだわる意味は、実際にはあまりないのかもしれません。
しかし、世界の価値基準を、その世界における個人(PC)が必ずしも共有する必要はないわけで、ルールという形でそうしたものを排除してしまうのは、どうにも困りものです。
排除しないで済むのならいいんですが、入力が一定であるなら出力も一定であるのがルールなので、排除しないようにするためには複雑な機構にならざるをえないだろうし、その複雑度を運用可能なレベルまで落とし込むのは相当骨が折れそうな気がします。


物語を読むという行為は、物語を判断する主体者を想定しているわけですが、主体者がどのように読むのか、読んだものをどのように判断するのかは主体者に委ねられている。このため、通常の読書のような形態であれば、物語の書き手がどのような価値判断を有していても、読者はそれとは独立に判断することができる。
しかしTRPG(特にセッションという場)においては、書き手としての価値判断と読者としての価値判断が混淆してしまう。自分で作ったものを自分で解釈するというのは、それは物語ではなくてただの妄想なんじゃないか。
と思うということは、私は書き手の独立と読者の独立こそが、つまり読者という客観的立場こそが物語の成立要件である、と認識しているということですな。それこそが自由な解釈を成立させるだろうから、ということになりそうですが、さて妥当性はいかほどのものやら。
しかしそれなら、ルール化しちゃったほうがいいような気もしてきますなあ。その違和感の原因はなんだろうか、とまだ宿題が出来てしまった。


まとめます。
ルールによる物語化は、書き手(=作り手=セッション参加者)の価値判断に介入し、価値判断を書き手から分離して外部化します(パターナリズムによる介入)。
外部化された価値判断はルーチン処理によってぶれることのない判断を下します(それって無理じゃね? というのが違和感の最たるものか)。
そうして生成された物語(の種)の読者(=主体的な解釈者)は誰なのか。セッションの参加者なのか、それともいわゆるリプレイの読者なのか(ここのところの想定によっていろいろと変わりそう)。

読書癖

一日一冊を目標にすると、ただ読むがために読むようになってくるわけですが。
しかして知識なんてものはそれ単体では意味はなく、現実との照応によって初めて意味なり価値なり意義なりが生まれるのだとすれば、蓄積するがための蓄積も、それが蓄積であるのなら、いつか役に立つ日も来るのでしょう。
役に立つ割合なんて1%もないけれど、人生だって1%もなんかの役に立ててるかどうかわからないんだから、まあちょうどいいんじゃねえの、といったところ。
千里の道の一歩を毎回踏みしめてるような気持ちになりながら、しかし人生の到達点というのは死以外ありえないのだから、この道の果てにはなにがあるわけでもなかろうなと、気軽な気持ちで散歩するが如く歩み続けるのが最近の理想です。


まあ、どんだけ本を読んだところでなにかを知った気になることはできても知ることなんてのはそうそうできるもんじゃねえな、という話ですが。
それにしてもブックオフの100円コーナーは危険すぎる。主に本棚に対して。いまだに積み本が二十冊以上。だいぶ減らしたけれど。
本の発行年代と内容を括って読む限りにおいては、古い本で得られる知見というのも少なからずあるもんだなあということなのか、あるいはいままでの自分が無学に過ぎたのか。
なんにしろ、一足飛びに得られるものなどありはしないし、たとえあったとしてもそんなもんはろくでもない。自ら適否を判断できない知識なんてもんは、付け焼刃の如き危険性しかないもんだ。判断できたところで判断の妥当性は判断できませんが。
先人の偉大さを知ることにすらこんなに時間がかかるのだから、自らの道を歩むなんてことは、それはもう膨大な手間と時間がかかるのだろうなあ。

物語的TRPGということで

しょっちゅう参照させてもらってます id:accelerator さんところから。
かなり間が空いているのは、書きつつ直しつつしてたからです。

成長して終わる物語と成長を繰り返し終わらない物語 - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む
http://d.hatena.ne.jp/accelerator/20100515/p1

こちらの本文の文脈は元エントリありきなので、私はそこらは省略させてもらいます。孫引き言及は無駄以前に有害なので。そして元エントリは諸般の事情で読んでません。


で、「成長」に焦点を据えてるわけですけども。
「成長」ってなんですかねー、というのがまず不明だなと。まあ難癖なんですが。
たとえば「子供」→「大人」という「変化」が「成長」だとして(一般的にはそうであろうと仮定して)。それは物語で見ればグラデーションで変化していくんだと思いますけども(ある時点でいきなり成長するのであれば、それは物語の文脈としては断絶してて物語たりえないので(そういう演出もありますが))、じゃあどこを切り取れば「これは子供」「これは大人」と判定できるのか、つまり成長ってのはどこで判断するの? とか。
あるいはそうした判定基準や区別を無視して、「変化」は「成長」だと据えた場合、それはただのトートロジーですよね? とか。つまり、経験点の獲得という「変化」は自動的に「成長」になるんじゃないんですか、と。
まずもって、主観的な観測要素である「成長」を据えて、それは物語のなにを担保するんでせうか? という疑問。それが物語であると定義しているのだからそれは物語だ、というのは、意味としては通りますが妥当性は担保されていない(妥当性なんてものが担保されえるとして、ですが)。妥当性というのはつまり、説得力なわけで。
前提を共有しうるかどうか、前提を共有した場合のみに成立する物語とはなにか、というのが疑問というか、最近頭の中でぐるぐる回っているのです。


そしてエンゼルギアというのは、少年少女が物語の主軸に据えられるが故に、成長物語としての側面を免れることができません。しかしここでいう「成長」というのは、端的に言えば「そうあるべき姿」としての大人像、あるいは(エンゼルギアなので)軍人像のようなものを、意識的にか無意識的にかはともかく規定した上で描き出されるものでしかない。
しかし実際にはそんな「あるべき姿」である人なんていない。大人はある日突然大人になるのではなく、「周囲が大人だと認定する基準」に到達した時、大人として認められる、認証されるのであって、これは端的に言って恣意的なものでしかない。周囲というのが社会を意味するのか世間を意味するのか村落共同体を意味するのかは、場面に応じるという意味しかないから。
この辺は、無意識的にそういうものを規定してきた自分に対する自戒です。
もっとも、そうあろうとしないキャラクターをどのように評価すればいいのか、つまり評価基準外にいる存在をどのように評価すればいいのか、という観点で言えば、評価しようがない、つまり「そういう人もいるよね」という評価しかできないことを考えれば、評価そのものが持つ属性というか役割のようなものでもある。
せめても、ダメだと切り捨てるのではなく判断を保留できる柔軟さと強靭さを持ちたいものではありますが。手っ取り早く、共通の評価軸を確立してしまうというのも、まあ場の選択としてはありかもしれない。その場合も「誰誰のような」というような結局は曖昧なものになるんでしょうけども。(厳密に軍規に従うのが正しい軍人だ、と言ったところでゲームで軍規を定義してるのなんて聞いたことないし、エンゼルギアにはない)


話が横に逸れました。
とどのつまり、評価軸の話にしかならないのかもしれない、ということです。物語的TRPG、というものは。それは別に、個別具体的なシステムである必要は必ずしもない。
「これは物語である」として「読めば(=解釈すれば)」、それでもういいんじゃないかと。物語を解釈するための行間を読む能力の個人差は、システムとして回収するのは不可能であると割り切ってしまってもいいように思います。
せめてもの補助機能として、「思う通りの演出ができる」のは大事かもしれませんが……それは究極的にはルールの意味自体を反故にするだけじゃないかなと。つまり、ルールの範囲内で判定結果を「思う通りに解釈する」という方向でしか、思う通りの演出はできないだろう、という意味で。
物語を漠然としか定義していない以上、机上の空論にすらなれていないという実感はありますが、さてはて、定義してしまったところで機能するようなもんでもなさそうだという実感のほうが強いのがまたなんとも。

没アイディアの掲載

考えながら「これどうだろ?」と思いつつ、「どうにもうまくないなあ」と思ったのはあんまり載せて来てませんが、これからはそーゆーのも文書化した奴は出してこーかなーと思います。
役に立つかはわかりませんが、誰の役に立つか決めるのは自分じゃないよなーとも思ったので。


で、まず没案。
先日の妄言を受けて、じゃあどんなパラメータがあるかなあ、というようなことを考えてました。

妄言 - TRPG履歴
http://d.hatena.ne.jp/standby/20100515/p1

オプション:喜怒哀楽システム - TRPG履歴
http://d.hatena.ne.jp/standby/20100528/p1

「愛」と「憎」で一本のパラメータ化して、プラスとマイナスで表現すればいいかなあ、とか。
反転イベントが起こると、プラス分がそのままごっそりマイナスになるとか。反転するときは追加加算されるとかもいいかも。とか。
ただ、これってパラメータの無闇な増加を招きやすいよなあ、とか、表裏になる感情として表現できないものもあるんじゃねえかなあ、とかを考えて没にしたのでした。
このゲームではこの感情はこう表現するよ! 的に割り切っちゃってもいいかなあ、とは思うんですけどね。