文脈の破綻

別にシナリオで文脈なんて作らなくてもいんじゃね? と先のエントリで提案したわけですが。

システム、シナリオ、セッション - TRPG履歴
http://d.hatena.ne.jp/standby/20100514/p1

そもそもシナリオの文脈というものは、どのように理解が可能になるのか、(シナリオライターが提示した文脈を)理解するなんてことができるのか、という問題もあります。
わかりづらいので例示します。4Wで下記の状況が提示されました、という例。
家族が(Who)子供の頃(When)街で(Where)殺された(What)
回答のWhyは「(だから)復讐する」「警察官になる」「犯罪の被害者を守る」というように、幾らでも分岐できます。つまり正解はない。そしてここまで書いて気付いたけど、セッションには再びHowが含まれるだろうけど、まあそれはいいや。
正解はないけど、理解できないWhyがある場合もありえる。「(自分も)犯罪者になる」というのは、おおむね理解されえない(トラウマとかフラッシュバックとか説明はつけられますが、とりあえず理解しづらいものである、としておく)。
この、「自分も犯罪者になる」を理解できない場合、(シナリオ上で)文脈が破綻することになる。因果を結び付けられない場合、文脈は破綻する、文脈とはすなわち↓だから。

ぶんみゃく【文脈】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/173555/m0u/%E6%96%87%E8%84%88/

(1)文における個々の語または個々の文の間の論理的な関係・続き具合。文の脈絡。コンテクスト。

さて。理解というのは主観的な行為なわけですが(論理性のみを追及すれば別でしょうけども、それは後述のプロトコルの話にしかならない)。主観的であるということは、個人差があるということで、つまり、文脈は個人に依存して存在したりしなかったりしてしまう性質がある、ということ。
セッションという複数の主観が参加する場において、文脈は正しく共有されえるのか。ぶっちゃけ無理じゃね? という話。
つまり、始まる前から破綻することがわかってる。
では、なぜ文脈が、物語が存在する、という仮定が存在しうるのか。ここでは、すでにしてそれが存在するからだ、としましょう。ただのトートロジーですが。
そしてまた、どうやったらそれが共有できるのか、となると、プロトコルが必要だ、という話になるのかもしれない。

プロトコルの意味 - 国語辞書 - goo辞書
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/172805/m0u/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%AB/

(2)データ通信を行うため、あらかじめ定めておく規約。信号送信の手順、データの表現法、誤り検出法などを定める。通信規約。

物語を共有しようとすると、なんだか科学的手続きの話に集約されていくのかもしれない。しかしそれは、主観を排除する方向への統合整理でしかない。「ここではないどこか」の架空の人間の形式的なやりとりは、遠くの国で起こってる戦争と同じにしかならないのではないか。徹底した客観は、主観を寄せ付けないのではないか。
物語を解釈する余地を削減する方向には調整できないので、これは没案ですなあ。やはりシナリオにも文脈は必要だ、という方向になるんでしょう。
ただし、文脈を誤読する可能性を減らすための手続き的な記述方法と解釈方法のフォーマットは、あってもいいのかもしれない。でも正しく読み取っても誤読しても、それが理解できなければ排除されるのであれば、そんな努力はそもそも不毛なのかしら。

オプション:喜怒哀楽システム

先のエントリを受けてぼんやりと。
とどのつまり、感情表現が物語において重要となる、という視座で考えた場合(物語の論理構造を重視するミステリのようなスタンスとは相容れないような気もしますが、そもそもそんなもんはセッションで構築してんじゃねえと思うので無視)、感情の変化が重要になってくるわけで、感情そのものがどうこうというわけではない。はず。
どういうことかというと、「普段怒りっぽい奴」が「怒った」ところで、物語的には(少なくともそれを重視するような)意味はない。意味があるのは、「普段にこにこしてる奴」が「怒った」、というような「感情の変化」であって、感情そのものではない。


これをシステム拡張で実装しようというアイディアが喜怒哀楽システム。
喜怒哀楽の4つのパラメータがあって、物語開始時点では、とりあえずフラット。全部0(以下、数値は適当)。怒りっぽい、とかいう属性があるなら怒に+1とか+2してもいいかも、ぐらい。
で、セッションが始まる。状況が変化する。誰かが喋る。喜んだり悲しんだりする。徐々に加算されたり減算されたり。理不尽に対して怒ったけど、事情を聞いて怒りは減算して悲しみの感情が加算される、等。
数値の最大値は10、ととりあえず設定するけど、これを超えることも可能。ここでいう10というのは、「理性で制御できる範囲」としての数値的な意味。「頭が真っ白になる」ぐらいの感情の動き、つまり制御できない感情の動きは10を超えて表現する。なかなか10を超えないキャラもいれば、10を超えやすいキャラもいるわけだ。
行動の原因としての感情の動きがわかると、周囲は動きやすい。「この人は怒ってる」「この人は悲しんでる」ということがわかると、「宥めなきゃ」と思ったり「楽しませなきゃ」と思ったりするわけで、(キャラにもよるけど)そう動くだろうし、そう動くだろうことが期待できる。
これを単独パラメータではなく、4つの感情値のバランスで表現すると、「いまどういう状態なのか」を可視化しやすくなる。


と、ここまで書いて思ったけれど、これは普段、オンラインセッションで文字ベースで遊んでるから感じるんだろうなあ、ってこと。字面だけ見てると、その人がどう思ってるかってけっこうわかりづらくて、けっこう読み間違ったりするわけで。
とはいえ、オフラインセッションでも、「PLの感情」ではなく「PCの感情」ってわかりやすいか? ってところは実際にはクエスチョンなので、オフラインでも利用はできそう、かな? まあやってみないとわかんないけど。
チャットに実装してみて試用できれば効果の目安は立つかなあ、と検討中。実装はそんな大変ではない、と思う。

システム、シナリオ、セッション

各要素が担う5W1Hを分解してみるテスト。
私のことなので、ストーリー重視型のセッションを想定しています。


システム:世界の事象を表現するための抽象化ツール(Howへの答え)
シナリオ:世界で起こっている出来事を表現するための事実の羅列(Who、What、When、Whereへの答え)
セッション:世界で起こっている出来事の意味を表現するための場(Whyへの答え)


これを言い換えると、下記のようになります。
システム:世界はどのように(How)(再)表現されるか。
シナリオ:世界では誰が(Who)、いつ(When)、どこで(Where)、何を(What)したのか。
セッション:世界は、なぜ(Why)そうしたのか。


セッションのところの文意はわかりづらいと思いますが、私は個体の意志は別に信じちゃいないので(少なくとも行動の選択という意味では)、まあ適当に読んでください。
事象の連続に意味を付与するのは意志の役割だとしても、意志がその事象の連続をもたらすわけではない、というような意味です。


シーン制システムが端的に示す通り、セッションというのは「状況/場面/シーン」の積み重ねで表現することができます。そこには「流れ」があると言える。
これを事実に即して5W1Hで表現しようとすると、Why以外の4W1Hは、単純に言語化可能です。事象の記法(How)はシステムで統一し、意味の説明(Why)は排除されているわけですから、文脈を形成する必要もない。
文脈は、セッションの場で作ればいい。言い換えれば、GMとPLが作ればいい。(セッションの前段階のシナリオ準備として)仮の文脈を事前に用意するのがGMであり、それに解釈を付け加えて文脈を再生成していくのがセッションであると。


そうなると、非常に無味乾燥なシステムとシナリオが出来上がるわけですが、それでいいんじゃないかなというようなことを最近思ってます。まあシナリオをワンセンテンスで構築する癖がついているせいなのかもしれませんが。(これはこれでオンラインセッションでは必要な技術であるにしろ)
小話を書いてて思ったのが、読み手にとってどうとでも取れるように書くには、出来るだけ具体的には書かずに、出来るだけ抽象的に書きながら、出来るだけ多くの意味を包含するように書くということです。
そして、意味の生成において重要なのは、書き手の意志ではなく読み手の意志である以上、書き手の意志は読み取れないぐらいまで摩耗させてしまってもかまわなくて、そういう意味ではエンゼルギアのシナリオは中途半端だなあとは思いますが、あれはあれで現実との折半と考えれば妥当性は十分に認められるということです。
つまり、書き手の意志がまったく読み取れないシナリオというものが世にそれほど多くはない現状との妥協という意味で。徹底していないけれど、徹底する必要もない、ということでもあります。徹底を求められていないわけだから。


さてそう考えると、なぜを記述する必要のないシナリオというのは、簡単に記述できるようにはできますが、実際には簡単には記述できません。文脈を無視して文脈を作れ、というような論理矛盾になるわけですから。何を書くかは簡単でも(4Wを書けばいいのです)、どう書くかは簡単にはなれないという(4Wを羅列してなにがわかるのか?)。
でもそれは、シナリオ記述における最大の難問、つまり文脈を圧縮して詰め込むという工程そのものの問題点なわけで、はなっから伝わるかどうかわからないんだから別に伝わらなくてもいんじゃね、という割り切りでもあるわけです。
「なぜ?」を考えるのは、GMとPLの役割であって、シナリオライタの役割ではなく、シナリオライタの「なぜ?」とGMとPLの「なぜ?」が同じである必要もない。という前提を踏まえておけば、シナリオライタがどうにも消しきれない「なぜ?」の断片を読み取ろうと捨て去ろうと、それはGMとPLの自由であるということです。
私は基本的に捨て去るわけですが。


結論としては、シナリオ記述そのものの定型を見直したほうがいんじゃね? というような話。「なぜ?」については、書いてもいいし書かなくてもいいけれど、読み手はそれを採用しても無視してもいい。ある程度の経験者は経験則的に理解はしていると思うんですが、しかしこれ、いわゆる初心者が理解できるのか、あるいは理解したとしても実践できるのか、という疑念は消せません。
ともかく、そうすることによって、シナリオをGMとPLが共有しても、そこから現れる文脈という形では何一つ共有できていないので(セッション前にそれを共有してしまった、それがもうセッションなので、セッションは不要になる、という意味のわからない話になるから)、セッションでは文脈を形成することになるわけですが、さてそうなるとGMの役割ってなんだろうって話にもなる。
従来型のGMの役割と立ち位置はルールの裁定者とストーリーの文脈の維持者だけど、システム構造によって文脈の維持者、つまり場面場面での決定者をPLサイドに委任することは不可能ではないように思う。むしろ文脈を共有しようとするなら、GMのような特権者は障害にすらなるのかもしれない。文脈を維持するためには、おおむねの場面においてルールの裁定権も必要になるだろうし。


こっから先は、まだ考え中の話。

意思と行動

 なにかをしたいって思う度にお金がもらえるなら、今頃大金持ちだ。
 なにかをしたいって思って実践する度にお金がもらえるなら、いまだに貧乏だ。
 どんなに優れたアイディアも、形にできなければ意味がないからこそ、思うようには生きられていないのかもしれない。
 いままで思うように生きるなんて思いつきはなかったな。