セッションという場

先のエントリで、こんなことを書きました。

どちらかといえば言い訳と解説 - TRPG履歴
http://d.hatena.ne.jp/standby/20090930/p1

物語を楽しむ、という観点を除外したとしても、GMからのシナリオの事前情報開示はある程度抑えられたほうがいいだろう、とは思いますが、PLからのPCの設定情報の事前開示は問題ない、と考えます。この辺は、詳しくは別途エントリを立てたいところです。

今回は、これに関連してあれこれと書いていきます。


まず、なぜ「GMからのシナリオの事前情報開示はある程度抑えられたほうがいい」のか、というのは、セッションという場を用意するからだ、ということになります。
どういうことか。「シナリオを事前にすべて開示し、内容について検討し、参加者がそのシナリオにおいてなにをするのか、なにをしたいのかを事前に打ち合わせて、シナリオの内容を調整し、当日はその検討結果に基づいたセッションを行う」とした場合、これはもう、事前にセッションをやってるだけのことです。つまり、セッション前にセッションをしてしまっている以上、セッションという場は無用の長物になってしまっている。
逆説的には、セッションの場というのは、上記の内容を若干変更してセッションの場で行っている意見調整の場だ、とすることもできます。「GMはシナリオを逐次的に開示し、PLは内容について検討し、参加者がその場面においてなにをするのか、なにをしたいのかを打ち合わせて、GMはシナリオの内容を調整する」というのが、セッションである、と。
判定のようなランダマイザの介入の有無は、この場合問題にはなりません。ランダマイザは「できたこと/できなかったこと」を規定しますが、「やりたいこと/やりたくないこと」を規定できないからです。ついでに言えば、「できること/できないこと」をすら厳密には規定しません。可能性の存在でしかないので。


さて、上記の枠組みを考えていたところで、こちらのエントリに偶然めぐり合いました。
部分的に引用していきます。

話し合うことについて考える -  陰陽師的日常
http://blog.goo.ne.jp/hocuspocushr/e/0d0f113f1e17e95ea16c5ea225dec30b

結局、実際の会議というのは、討議ではなく、確認のため、さらにそれをふまえて実行段階に移す際の役割決定のために行うことが少なくない。

これがいわゆる、「事前にすべてを開示し、調整までも済ませたセッション」の形に近い会議でしょう。そして、概ねにおいて、そんな会議は時間の無駄である、と極論してしまうことが多いかと思います。

あらかじめどう持っていくか、質疑応答までもがシミュレイトされている会議では、反対意見を聞きながら、そこから何かを産み出すことができるような、創造的な会議というのは、いまの世の中ではなかなかむずかしいのだろうか。

会議=セッションでなにかを生み出そうとした場合、物語を創造しようとした場合、事前検討するだけではダメなのではないか。これはけっこうすんなり納得がいきました。
そして、引用の引用になってしまいますが、ではどうすればいいのかということについて、下記のように語られています。

気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得いくまで話しあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。話といっても理屈を言うのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話に花がさくというのはこういうことなのであろう。
宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫

おそらく、物語というのは、個々人において独自に成立させるしかないものである、という前提に立った場合、「みんなが納得いくまで話しあった」という形をとらざるをえないのではないか、ということを思いました。
みんなで同じことについて話し合い、それぞれに不満が出ない形で話し合い(これは話し合いの中で意見の摺り合わせ、持論を通すのではなく、折衷案を模索するということですが)、その結果に対して文句を言わない。もし文句を言う人がいたとしても、それは自分の意見を提示できてないか、他の人に理解してもらえなかったか、なんにしろプレゼン能力不足だったということで、これは「話し合い」で解決しようとする以上、プレゼン能力は必要になってくる、ということでしょう。「自分の意見を聞いてもらう」ことを成立させていなければ、話し合いにはならない。
(プレゼン能力の高低は問いません。相対的な話にしかならないので。聞き取るのが上手な人がいればフォローにはなりますが、それを最初から他人に期待することはできません。これは参入障壁として機能してしまいますが、逆に言えば「話し合いが成立しない人」を排除するだけですので、機能的には問題にはなりません。敷居が高くなるのが問題になります)


話し合いについては、上記のサイトの別エントリでより詳しく触れられていますが、ここではそのエントリを掲示するだけにします。

どういったものが「話し合い」なんだろう -  陰陽師的日常
http://blog.goo.ne.jp/hocuspocushr/e/e121c21d5968fd612c6bec1b50b67c5d

会話のなかの「含み」 -  陰陽師的日常
http://blog.goo.ne.jp/hocuspocushr/e/e1622ce1096106764e1f15309db5f683

セッションという場で、物語を創造しようと取り組む場合、やはりそれ用のルールがあるのではないか。そしてそのルールは、ルールである以上、参加者に周知されていなければならないんじゃないか。
そして、ルールの策定も含めて、参加者の自由な意見に基づいて討議され、合意し、修正され、また意見が提示され、討議されていくというサイクルを辿ることによってのみ、物語を創造するための場が維持されていくんじゃないか。PDCAサイクルですね。まあPDCAサイクルは持続するのが一番困難なんですが。
なんて漠然とした予感だけでこのエントリは終了です。物語の創造については、正直、まだまとまりきってません。

PDCAサイクル - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/PDCA%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AB

シナリオ・ストーリー・物語とは - きまぐれTRPGニュース - trpgnewsグループ
http://trpgnews.g.hatena.ne.jp/accelerator/20090913/p11