物語的TRPGということで

しょっちゅう参照させてもらってます id:accelerator さんところから。
かなり間が空いているのは、書きつつ直しつつしてたからです。

成長して終わる物語と成長を繰り返し終わらない物語 - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む
http://d.hatena.ne.jp/accelerator/20100515/p1

こちらの本文の文脈は元エントリありきなので、私はそこらは省略させてもらいます。孫引き言及は無駄以前に有害なので。そして元エントリは諸般の事情で読んでません。


で、「成長」に焦点を据えてるわけですけども。
「成長」ってなんですかねー、というのがまず不明だなと。まあ難癖なんですが。
たとえば「子供」→「大人」という「変化」が「成長」だとして(一般的にはそうであろうと仮定して)。それは物語で見ればグラデーションで変化していくんだと思いますけども(ある時点でいきなり成長するのであれば、それは物語の文脈としては断絶してて物語たりえないので(そういう演出もありますが))、じゃあどこを切り取れば「これは子供」「これは大人」と判定できるのか、つまり成長ってのはどこで判断するの? とか。
あるいはそうした判定基準や区別を無視して、「変化」は「成長」だと据えた場合、それはただのトートロジーですよね? とか。つまり、経験点の獲得という「変化」は自動的に「成長」になるんじゃないんですか、と。
まずもって、主観的な観測要素である「成長」を据えて、それは物語のなにを担保するんでせうか? という疑問。それが物語であると定義しているのだからそれは物語だ、というのは、意味としては通りますが妥当性は担保されていない(妥当性なんてものが担保されえるとして、ですが)。妥当性というのはつまり、説得力なわけで。
前提を共有しうるかどうか、前提を共有した場合のみに成立する物語とはなにか、というのが疑問というか、最近頭の中でぐるぐる回っているのです。


そしてエンゼルギアというのは、少年少女が物語の主軸に据えられるが故に、成長物語としての側面を免れることができません。しかしここでいう「成長」というのは、端的に言えば「そうあるべき姿」としての大人像、あるいは(エンゼルギアなので)軍人像のようなものを、意識的にか無意識的にかはともかく規定した上で描き出されるものでしかない。
しかし実際にはそんな「あるべき姿」である人なんていない。大人はある日突然大人になるのではなく、「周囲が大人だと認定する基準」に到達した時、大人として認められる、認証されるのであって、これは端的に言って恣意的なものでしかない。周囲というのが社会を意味するのか世間を意味するのか村落共同体を意味するのかは、場面に応じるという意味しかないから。
この辺は、無意識的にそういうものを規定してきた自分に対する自戒です。
もっとも、そうあろうとしないキャラクターをどのように評価すればいいのか、つまり評価基準外にいる存在をどのように評価すればいいのか、という観点で言えば、評価しようがない、つまり「そういう人もいるよね」という評価しかできないことを考えれば、評価そのものが持つ属性というか役割のようなものでもある。
せめても、ダメだと切り捨てるのではなく判断を保留できる柔軟さと強靭さを持ちたいものではありますが。手っ取り早く、共通の評価軸を確立してしまうというのも、まあ場の選択としてはありかもしれない。その場合も「誰誰のような」というような結局は曖昧なものになるんでしょうけども。(厳密に軍規に従うのが正しい軍人だ、と言ったところでゲームで軍規を定義してるのなんて聞いたことないし、エンゼルギアにはない)


話が横に逸れました。
とどのつまり、評価軸の話にしかならないのかもしれない、ということです。物語的TRPG、というものは。それは別に、個別具体的なシステムである必要は必ずしもない。
「これは物語である」として「読めば(=解釈すれば)」、それでもういいんじゃないかと。物語を解釈するための行間を読む能力の個人差は、システムとして回収するのは不可能であると割り切ってしまってもいいように思います。
せめてもの補助機能として、「思う通りの演出ができる」のは大事かもしれませんが……それは究極的にはルールの意味自体を反故にするだけじゃないかなと。つまり、ルールの範囲内で判定結果を「思う通りに解釈する」という方向でしか、思う通りの演出はできないだろう、という意味で。
物語を漠然としか定義していない以上、机上の空論にすらなれていないという実感はありますが、さてはて、定義してしまったところで機能するようなもんでもなさそうだという実感のほうが強いのがまたなんとも。