他人は自分に迷惑をかける存在である

それはリプレイ読みかどうかという問題ではないんじゃないかなと。レッテルやカテゴライズの弊害は指摘の通りにしても、そもそもの問題=問題行動を起こすユーザとはかけ離れてるのではないか、という意味です。

2008-03-24 - GM日記
http://d.hatena.ne.jp/inouekari/20080324#p6

 しかし、セッションの現場において、叩き上げで育ってきた生粋のTRPGゲーマーからすると、リプレイ読みは、ミーハーに映ったり、実践とは程遠いリプレイの受け売りだけで行動する危険分子になりかねないと、懸念される傾向があるようです。リプレイ読みは、ネガティブに捉えられ、一方的な偏見を抱かれているのです。

つまり、「リプレイ読みだから問題行動を起こす」というのは杞憂に過ぎない、という点で同意してます。そこんとこ誤解なきよう。確率論までは論じませんよ。統計取れないから。


んでもって表題に戻って。
なぜ他人が自分に迷惑をかける存在なのかといえば、完全な意志疎通はできないし、たとえ出来たとしても、他人の意志というのは、自分の判断材料になるだけであって、自分の判断・行動そのものではないからです。当たり前の話ですが、極端化したわかりやすい例として、「お前は死ねって言われたら死ぬのか」って話です。そんなことで死ぬ人はいませんが、死ねって言った人は本当に死んで欲しいと思ってるのかもしれないし、その場合、死んでくれないのは迷惑なわけです。
自分の意志が常に必ず実現される状況でない限り、他人の行動というものはすべて迷惑だと言い切れます。現実ってのは、その上でお互いが我慢をするものであって、妥協なしには成立しません。


で、妥協するのが苦手なのがTRPGゲーマーだけど、実際のところ、妥協が得意な人なんていません。みんなそうです。世界中の誰よりも自分が大事、ってのが万民共通の本音です。それを理想論で糊塗してもどーにもなりゃしません。
「他人のために死ぬ」なんて行動も、「他人のために死ぬ自分」が大事なだけです。そこには幻想の入り込む余地すら、本来はないです。が、なんとなーく空想的妄想的理想論のお陰で、「他人のために死ぬことができる人がいる」という錯覚が生まれます。
私はそーゆー錯覚とか空想とか妄想でしかないものがあれば、それでいーんじゃないかと思ってます。それが真実であったり事実であったりする必要はまったくなくて、「理解しあうことはできない」という前提をもってもなお、「それでも理解できたと思える」ことが大事なんだと思ってます。
生きるのなんて幻想と虚構のマジックです。こんな開き直りを抱えてても生きてはいけるんです。多少の妥協なんて大した問題じゃありません。