パターナリズムと物語

先のエントリになんかたくさんブクマがついてて、なんか気のきいたことでも書いたほうがいいのかしら、と思いつつ出来もしないことはしないと心に決めているのはもう若くないからなのかしら自分と思う私でございます。
そんなことはどうでもいいとして。
(まとめまで書いてから追記)相変わらず書きながら考えてるのでまとまりがありません。


行為判定の結果がどのような意味を持つのか。成功、失敗、という結果は明確に示すことができますが、これを受容する、というのはどういうことなのか。そしてそれは物語にどのような意味・影響を与えるのか、というようなことが気になりまして。
というのも、ルールというのは、言ってみれば第三者の審級に相当するかと思いますが(勉強不足なので第三者の審級については曖昧にしか把握できてませんが)、これによって、ルールによって導き出された結果には正当性が付与されることになります。
これは、事象に対する正当性であって、物語的・意味論的な正当性とは別のものです。(あえて大雑把に書きますが)ルールというのはゲーム世界内で物理的な事象の記述方法を統一する手法ですが、それの意味を解釈するのはルールの役割ではなく、参加者の役割になる。だからこそTRPGGMという裁定者を必要とし、要求してきた。誤解を恐れずに例えるなら、ルールと参加者の間を取り持つ裁判官のような役割として。
というのが現時点での私のルールに対する理解です。その視点からすれば、ルール(≒システム)による物語への介入というのは、パターナリズムによる個人の価値観への侵害ではないか、ということになる。

パターナリズム - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0

パターナリズム(英: paternalism)とは、強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益になるようにと、本人の意志に反して行動に介入・干渉することをいう。

問題なのは、たとえば教育がそうであるように、結果的に良い結果(=この場合は物語という生産物)を出せばそうした侵害は免責されるのか、免責されなくとも必要悪として容認されるのか、ということです。ルールによる物語化というのは、そうした問題を内包するのではないか、というのが引っかかっています。
もちろん、制約を受ける側が、介入・干渉を肯定する、ということはありえますし、そうした場合、これは問題にはならないでしょう。本人の意志に反していなければ、パターナリズムにはあたらないので。つまり、それを選択する自由が担保されているのなら、ルールによる物語化は「あってもいい」ということになる。


そうして成立した「ルールによる物語の形成」は、価値基準の統一を必然的に要求します。これは言い換えると、善悪の判断をルールに委任する、ということになる。私はどうも、これは受け入れがたい。というか、それはもう物語ではない、とさえ感じる。
もっとも、以前も書きましたが、TRPGは、世界観という形で価値基準を打ち出しています。なので、これにこだわる意味は、実際にはあまりないのかもしれません。
しかし、世界の価値基準を、その世界における個人(PC)が必ずしも共有する必要はないわけで、ルールという形でそうしたものを排除してしまうのは、どうにも困りものです。
排除しないで済むのならいいんですが、入力が一定であるなら出力も一定であるのがルールなので、排除しないようにするためには複雑な機構にならざるをえないだろうし、その複雑度を運用可能なレベルまで落とし込むのは相当骨が折れそうな気がします。


物語を読むという行為は、物語を判断する主体者を想定しているわけですが、主体者がどのように読むのか、読んだものをどのように判断するのかは主体者に委ねられている。このため、通常の読書のような形態であれば、物語の書き手がどのような価値判断を有していても、読者はそれとは独立に判断することができる。
しかしTRPG(特にセッションという場)においては、書き手としての価値判断と読者としての価値判断が混淆してしまう。自分で作ったものを自分で解釈するというのは、それは物語ではなくてただの妄想なんじゃないか。
と思うということは、私は書き手の独立と読者の独立こそが、つまり読者という客観的立場こそが物語の成立要件である、と認識しているということですな。それこそが自由な解釈を成立させるだろうから、ということになりそうですが、さて妥当性はいかほどのものやら。
しかしそれなら、ルール化しちゃったほうがいいような気もしてきますなあ。その違和感の原因はなんだろうか、とまだ宿題が出来てしまった。


まとめます。
ルールによる物語化は、書き手(=作り手=セッション参加者)の価値判断に介入し、価値判断を書き手から分離して外部化します(パターナリズムによる介入)。
外部化された価値判断はルーチン処理によってぶれることのない判断を下します(それって無理じゃね? というのが違和感の最たるものか)。
そうして生成された物語(の種)の読者(=主体的な解釈者)は誰なのか。セッションの参加者なのか、それともいわゆるリプレイの読者なのか(ここのところの想定によっていろいろと変わりそう)。