想像するということ
昨日のエントリの続き*1です。主旨はだいぶ違いますが。
ぶっちゃけできませんわな、というのが正直なところ。
想像というのは、体験が前提にあって、「自分が体験したことを追体験すること」でしかありません*2。想像をリアルにしようとすればするほど、前提となる体験が重要になります。
例をあげるなら、「コンビニ店員のバイト」は、コンビニでバイトしたことない人以外には、推測はできても想像はできません。想像できる、と考える場合、それは類似すると推測される体験から補填しているだけであって、厳密には想像にはなりません。おそらく、「スーパーの店員のバイト」をしたことのある人は、「コンビニ店員のバイト」を想像しやすいでしょう。ただしそれは類推であって、実像ではありません。
言い方は悪いですが、実像でないのであれば、それは全部妄想で、「ファンタジー世界での生活」というロールがあった場合、リアルに想像ができるのは「日常生活」の部分であって*3、その日常生活も、現代日本*4に根ざしたものです。だからファンタジー世界では風呂がどーのこーのとかいう議論が成り立つわけで*5。
なので、「戦争を知らない私」の「エンゼルギアにおける軍人のロール」は、妄想の産物でしかありません。情報源は実体験ではなく、漫画や小説や映像などの伝聞媒体によって得た情報を取捨選択し、「自分に都合のいい戦争像」を作っているだけです。
ここまでは、わりと当たり前の話としておきます。
それでもTRPGはできます。演技という意味でも、楽しむという意味でも。
それが想像であれ妄想であれ、よしんば実像であったとしても、卓を囲むメンバーのコンセンサスがあれば、「それが真実になる」からです。現実に仮託しつつ、それを超越する理論が傲然と聳え立っているからです。
なので、「現実ではこうだから」という理論は、実際にはあんまり意味がありません。もちろん、リアリティがロールプレイにおける重要なファクターであることは認めますが、それだけでは楽しいロールプレイができないこともまた確かです。
GMとPLのやりとり、PL間のやりとり、これらが根ざすものは、コンセンサスであって、現実ではない以上、和マンチとか首ナイフとか、いろいろな問題*6も、様々な環境での様々な回答があり、模範解答はないでしょう。
あるとすれば、「答えを見出そうとする姿勢」だけです。
「言われた人の気持ちになって」なんて言われたって、わかんないですよね。言われた人がどう思ったかを率直に言葉にしてくれない限り、全部妄想です。言われた人が「これこれこう思うから、そういうのはやめてくれ(or場合によっては「もっとやってくれ」)」と明言しないと、伝わるものも伝わらないでしょう。
「空気読め」というのも悪くはないし、嫌いではないんですけど、読めない人は絶対いるし、読めない場合、それは読めない人だけの責任でもないので、きちんと指摘していきたいなあ、と思う次第。
次回「感想を言うこと」に続きます。……続くんでしょうか。