システム

究極汎用型TRPGシステム - エンゼルギア -原罪証明書- 楽屋裏


見た感じの印象だけど。
判定というのは「出来ること」と「出来ないこと」が明確に区分されているから意味があるから、判定基準が曖昧なのはゲームじゃないと思う。
「出来たらいいな」で出来るならダイス振る必要はないわけで。そのための「能力値」や「技能レベル」で、「出来ることの明文化=出来ないことの明文化」になるんじゃないかな。


以下は引用を交えつつ。

 まず、どんなTRPGシステムであっても、プレイヤー同士の会話でシナリオを進めるという大前提が覆ることは無い。
 故に、物語の舞台があって、プレイヤーの分身であるキャラクターさえ居れば、それだけでTRPGを行うことができる。
 ようは、舞台設定とキャラクターを作るときに設定してはいけない範囲だけを用意すれば、TRPGとしてプレイするには不足は無いのである。

これは、「シナリオを遊ぶ」という前提においては間違っていないけど、「ゲーム」ではないと思う。いわゆる「なりきりチャット」に区分される遊び方で、ゲーム性は「参加者のイマジネーションのぶつかり合い」部分にしかない。
そしてそれは「明確で客観的な判断基準」のない、主観のぶつかり合いであって、馴れ合いになるか、破綻するかしか方向性の選択肢が感じ取れない。

 また、時には判定を行いたいと言うときもあるだろう。
 プレイヤーに数値が設定されていなければ、判定は出来ない、若しくは判定の意味が無いというのであれば、答えは否だ。
 (中略)
 判定の意味が無いというのであれば、実質その判定自体が無意味なものなんだろうし、GMが指定したダイス数を降らせるのでも良い。(ジャンケンでの勝敗を同じダイスを振って数字の高い方を勝ちにするなど)

前半と後半で意味が繋がってないように見えるけど、まあそれはともかく。
「判定の有名無実化」は最近のTRPGシステムだと顕著だけど*1、それは「判定のいい加減さ」「判定の曖昧さ」に依拠しているわけではないと思う。
あくまでも「ルールに則って"誰がどういう行動宣言をしても"同じ処理が行われる」ことが「客観的判断基準」として必要なわけで、判定に関わる人物(この場合、判定をするPLと、その判定の結果を裁断するGM)が判定値に口を挟めないならまだしも、それぞれの主観で判定値を決めるのは、すでにゲームですらない。
TRPGにおいて「ルールブックが金科玉条」なのは、主観での衝突には折り合いがつかないから*2客観的な判断基準を優先しましょうということであって、判定が出来ればいいということではない。

 勝ちロール、負けロール、逃げロール。それを定義するのはダイスではなく、それぞれのプレイヤー自身なのだから、あくまでダイスは小道具なんだよねぇ。

小道具を使うのは、それでカタルシスが得られるからであって、それ以上ではないけれど、それは逆に、小道具の存在意義を否定するものではないと思う。
「制約による達成感」ということだけど、なんでも思い通りになるゲームは、すぐ飽きる。
「チートしたゲーム」が楽しいのは、チートした直後だけでないかな。あるいはチート行為自体が楽しい*3んじゃないかと思う。それは本末転倒の結論だと思う。
TRPGのキャラクターは「一般人よりはすごい」けど、「なんでもできる」わけじゃない。というのは、優れたバランス感覚で設定されている条件だ。
なんでもできる人間なんていないけど。

 経験点という概念に付いては、「経験点はモチベーションになるから必要だ」と言われても、どうかなと思ったり。それを前提としたシステムならまだしもね。

モチベーションというのは、「セッションをする」モチベーションではなくて、「キャラクターを成長させる(=使い続ける)」モチベーションのことでは?
野放図に成長させられるのではなく、少ない経験点をやりくりして成長させる「楽しみ」であり、そうして成長させたキャラを使う「楽しみ」のことであって、経験点が直接的に参加意欲をどうこうするのではないと思う。


結論
システム外に置かれたコンセンサスの要素が多すぎるから、「いかに馴れ合うか」をクリアした部分での話、ということでいいんだろうか。
そういう条件下であるなら、これでも遊べるだろうけど、魅力はない、とだけ断言しておく。

*1:参加者が全員気持ちよく遊ぼうという前提をもって、事前のコンセンサスがあまりない環境を想定してしまえば、必然的に「判定失敗」の機会自体が削られていくのは仕方がないことだと思う

*2:ついたとしても感情的なしこりを残すから

*3:いわゆる解析とかそのあたり