くさいものにはふたをしろ(積極的に)

具体的な話ではなく抽象的な話です。
馬鹿な人が馬鹿な話をしてるのを見て、「君は馬鹿な話をしている。それはこれこれこういう理由で馬鹿な話だ。それについてどう思う?」なんてわざわざ説明して差し上げるような犠牲的精神溢れる忠告をするのは、おそらく誰にとっても利益にはならないので、臭いものに蓋をして見なかったことにしちゃうのが一番いい、というのが現実行動における最適解なんじゃないのかな、なんて昨日の夜の友人との愚痴を思い出して思ったりした。
「他人」が「自分のため」になんか忠告「してくれる」、なんてのも、ある意味理想主義的よね。たぶんある程度大人になっちゃうというか経験を積んじゃうと、他人のために忠告したって嫌われるか理解されないだけってのがわかってて、そんなめんどくさくてリスクだけしか見返りのないことはしなくなるのを感じたりして、他人に対する信頼とか期待にも一線引いて眺めるようになると思うけれども、そもそも他人の忠告を非難としか感じられない人種(被害妄想派)とか、非難としてすら感じられない人種(馬の耳に念仏派)も存在するんだから、いやはや、人間関係というのは度し難い。