システムの目的に応じたデータの構築

ソードワールドでは状態異常系が強すぎ、みたいな話を聞いた(無印か2.0かは聞き忘れた。そもそも別の要素だった気もする)。ので、その辺についてちょっと考えてみる。ちなみにソードワールドについての話ではないです。相変わらずの全般的な印象論です。


データになんらかの偏りがある場合、「1.わざとそういうバランスにしている」と「2.なんでかそういうバランスになっちゃった」があると思う。ほかにもあるかもしれないけど、とりあえずその二つで考えてみる。
2のほうは、まあただの結果論で、システムと無関係なので、あんまり考慮に値しない。おかしいと思ったら改訂すればいいだけの話だから。改訂が難しいレベルの欠陥なら欠陥として認めなきゃいけないだろうし、公式にそれが欠陥だと認めないと、困るのは現場の運用なわけで。
一方の1の場合は、はなっからそういう目論見でやってるので、システム的にもそうした歪んだバランスで運用することを想定している、あるいは期待している、と言える。考える余地があるのはこの1の場合。


「わざとそういうバランスにしている」という場合でも、状況としては何種類かあると思う。「隠された要素としてバランスブレーカーを用意している」場合とか、「公式にそのために調整されている」場合とか。まあバランスブレーカーはうまい仕組みじゃないと思いますけどそれはともかく。
偏ったバランス(偏ってるのにバランス)で調整されているということは、システムが特化している、と言い換えることもできると思う。エンゼルギアはロールプレイに特化していて、そのためにパトスチットという仕組みがある、というように。
システムの意を汲み取るかどうかは運用に任せることができたとしても、システムが推奨するスタイルがどういうものであるのか、ということについては公式にきちんと明言したほうがいいんじゃないか、と最近思う。TRPGは自由というけれど、自由が問題をもたらすような時代、あるいは状況に到達しているだろうと思うから。
これは話題的には逸れるけれど、それなりの市場(ユーザのプレイ環境)がTRPGにはある、ってことでもあって、それ自体はいいことだと私は思ってます。


見ず知らずの人がいきなり合意を作るには、実はシステムや公式によるきつめの制約が必要だろう、と私は思ってます。TRPGに比べて自由度の少ない(と言われている)CRPGですら、遊び方とか物語とかユーザに勝手に見出される意味的ななにかは、全然共有されないわけですから。
それらの意味が、個人で完結する分には全然問題ない。価値観の問題で済むから。意見が一致しない人がいたとしても、あなたはあなた、私は私、で済ませることができる。落とし所があるって意味で。
でもTRPGは、その価値観のぶつかり合いという面が、どうしても出てくる。すり合わせと表現してもいいけど。明快な落とし所はない。コミュニケーション自体にそんなものはないんだから、それで当然。
そのために、言い方を変えれば、ルール違反をきちんと規定し、整備するということ。やっちゃダメなことを明確にすること。少なくとも、公式で明確なガイドラインを用意して、それからはみ出す場合は、それを明示するようにすること。
そういうわかりやすさが必要だろうと思う。わかりやすいというのはとても大事なことで、どれだけわかりやすくしても、わからない人がいるという前提こそが大事。もちろん、強圧的に、強権的に振る舞えということではありません。相互理解の一助として、基準値となる公式を用意しよう、ってことです。


教育が、模範的な市民は養成できても、徳の高さを培うことはできないように、公式なガイドは、模範的なプレイヤを生み出すことはできるかもしれないけれど、それで徳の高いプレイヤを生み出すことができるわけじゃない。模範的であればよいというのは思考停止で、四元徳の悪徳としては愚昧ということになるんじゃないかしら。

徳 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3#.E5.9B.9B.E5.85.83.E5.BE.B3.EF.BC.88cardinal_virtues.EF.BC.89

ルールをルールとして理解した上で、ルールから逸れてもルールの目的を達成することができること、が徳なのかなあと考えつつ。「徳は二つの極端の中間として考えられうる」という記述は、なかなか示唆に富んでいるような気がする。結局はバランスに到達するという。
で、以前、TRPGが悪意が弱い件をちらっと書きましたが、極端な話、TRPGは悪意にも弱いけれど、善意にも弱いのかもしれない、ということを思ったり思わなかったり。

TRPGは悪意に弱い - TRPG履歴
http://d.hatena.ne.jp/standby/20080627/p1

究極的には、悪意と善意には区別がつかないからです。「あなたのために」やったことが、結果的にうまくいかなければ、そんなものは善意でもなんでもなく、ただのはた迷惑になってしまう。いいと思ったことをするな、ということではなく、いいと思ったことをいいという理由だけでするな、ということですね。結果的にいいことにならなきゃ、善意にも意味なんてないわけです。
ええ、これ、最近の仕事の教訓です。アドバイスが仇になるってことは、確かにあります。
考えて行動しましょうという、それだけといえばそれだけのことですが、考えるための基準があったほうが、判断は下しやすいよねってのが、今回の主旨です。
その上であえて書きますけども、いいことをしようとして失敗したって、それはそれでいいんです。善意を理解してくれる人ばかりじゃないですが、理解してくれる人は確実にいます。そうした人の善意に甘えて経験を積んだって、別に悪いことはありません。
この辺は、開き直る心の強さを持てるかどうかだけなんですけどね。失敗しなきゃ成功もしないし、失敗したことに気付けるかどうかが大事なことだと私は思います。