理想と現実

理想というものが個人のエゴから発生するものである以上、理想郷なんてものはないわけで……という大前提を持ったとしましょう。
その上で、私はセッションでは理想を語るようにしています。それはなぜか。
いま、メインで遊んでいるエンゼルギアは、仮にも戦争を題材としている以上、そこにあるのは現実だけで、理想の入り込む余地というのは一切ありません。本来的には。血で血を洗い、やられたらやり返す、復讐の論理が国家の名の下に正当化され、合法的に殺人が認められる。それが戦場の現実でしょう。
それを知りつつもそれに学ばず、「リアリティ」の名の下に血に酔うことが、さて「正しいゲーム」*1なのだろうか?

私は、「どうせゲームなんだから」という言葉を、こういうときに使うことにしています。どんなに青臭くてもいい。戦争の現実なんて知りもしないのに理想を訴えるなんてばかばかしいと思う。安全な場所から嫌なものに蓋をするように理想を唱えているだけなのかもしれない。
でも、戦争を知らないからこそ、理想を抱ける、ということもあるんじゃないでしょうか。戦争の現実を知る前に架空の戦争を知っているからこそ、いざ現実に直面したとしても、理想を唱えられるんじゃないでしょうか。
もちろん、その理想*2は、戦場では早死にしか招かないでしょう。現実とはそういうものです。
しかしそれは、決して理想を裏切ってはいません。理想の名の下に人を殺すか、理想の名の下に殺されるか、程度の違いしかありません。そして抱いた理想からすれば、理想の名の下に殺されたからといって、なにが間違っているわけでもありません。
もしそれが無駄死になんだとしたら、理想の名の下に殺された人が無駄死にじゃないなんてどうして言えるんでしょうか。

それを良しと取るか、悪しと取るかは、人それぞれでしょう。現実の戦争に直面したら、私も百八十度意見を変えるかもしれません。
「これはゲームです」
だからこそ理想を、その真実の姿を希求したいと思っています。

※最初は理想郷とは〜〜という文脈にするつもりだったんですが……それはまた後日。

*1:「正しいフィクション」と言い換えてもよいかも

*2:ここでは、「誰も死なせたくない」とか、そういった類の青二才の理想、としておきます