自由の価値

論点としてこれほど不自由なものもないよなあ、という自己矛盾の極みみたいな話ですね。


TRPGは自由だ」とか「創造(想像)力のゲームだ」とかまあ一時よく聞いた単語ですが、そんなものは、それをそうして遊んでいる人種のための言葉であって、それ以上のものではありません。
TRPGが不自由だとなぜいけないのか? CRPGと類似するからいけないのか? CRPGと類似してはいけない理由はなんなのか? TRPGの独自性がないからだろうか?
しかし、PLが慣れ親しんでいるシステムは、圧倒的にCRPGのほうが多い。ポスト○○として取りざたされるシステムは、大概がCRPGだ。CRPGの世界をTRPG世界で再現しようとするなら、CRPG的になってなにがおかしいんだろうか。
TRPG者の大半の人は気づいているんじゃないだろうか? CRPGなくしてTRPGは成立しえない状況になっていることに。
TRPGだけを遊んでいるゲーマーなど、まずいないだろう。少なくとも私の周りにはいない。一時に比べればだいぶ疎遠になったとはいえ、私もいまだにCRPGで遊ぶことがある。(時間比率はTRPGの十分の一にも満たないが)
では、それは悪なのか、といえば、そういうこともない。先ほども書いたように、TRPGの前提に既にCRPGが存在するのであれば、CRPGなくしてTRPGは説明しえないものになってしまう。
これはもちろん、現在の一部のPLの状況というだけであって、絶対的なものではない。しかし、そういうPLの存在を置き去りに話を進めても、意味はない。


TRPGは自由である」として、その自由はなにを前提に形作られているのだろう。
CRPG中心のPLが感じる自由」と、「TRPG中心のPLが感じる自由」は、乖離している。していて当然だ。
中堅や古参以上のPLは、TRPGの自由を後者で語る。FEAR製ゲームでTRPGを始めたような初心者は、TRPGの自由を前者で語る。
もちろんこれは極論で、そんな簡単な話じゃない。前提が変わればいくらでも変わる。そもそもこの初心者だの中堅だの古参だのという表現も気持ちが悪い。好みと経験が必ず一致するなら、世界はもっと階層構造になってそれぞれ独立している。


自分の遊び方と相手の遊び方がわからないから俗に言う「事故」が発生するんじゃないだろうか。
結局それは、「空気読め」という言葉に集約されていくのだろうけど……