(28−5)
病院の真上には満月が昇っていた。象徴的と言えばいいのか暗示的と言えばいいのか。不吉な予感はよくあたると言うらしいが、まったくもって嬉しくない。
なにが始まり、またなにが終わったところで、得るものなどなにもないとわかっているのに、自分はいまここにいる。わかっていながらも期待があるからなのか、わかっているからそれを確認するためにここにいるのか。
諦めている。認めている。本来なら自分は、ここに立つ資格もないんだろう。
「夜の病院って、やっぱりちょっと不気味だよね」
背筋を震わせて、私服姿の真智が言う。季節柄、肩が出ているような服を着るのはおかしくないが、以前の真智なら絶対にそんなものは着なかったらしい。
いいことなんだろう。いいことなんだろうと思うことにしている。
とても静かだった。騒がしい病院などそうそうないだろうが、それにしても異常なほどに静かだった。
「じゃ、行くか」
二人で手を繋いで歩いてきた。あいにくとどっかの野郎のように、二輪も四輪もエンジン付きの乗り物は持っていない。その分脱出が楽だというのはあるが、決意のわりに、なんだか情けないような気もする。
病院への侵入路については確認してある。どこぞの阿呆ナビゲーターが、入院中の相方を見舞うために調べ上げた情報だから間違いはないだろう。見舞いに行くだけなのに侵入路を調べなければならなかった理由についてはあえて秘しておくことにする。まったくもってギアドライバーやらナビゲーターというものは、ろくでもない連中の集まりだ。
救急患者の搬入口のあるほうに回る。その途中で、病院の敷地に埋められた樹木が、道路と病院を隔てる金網と接しているところがある。ここの金網には誰が仕掛けたのか知らないが細工がしてあって、人一人がなんとか通れる程度にはめくることができた。
これはわざと残しているんだろう、と俺は思っている。こんな露骨な抜け道を、軍関連の施設が見逃すはずがない。わざと見逃されている脆弱性ということは、つまりここには他よりもよほど強力な監視が仕掛けられているということだが、ここを使ってつかまった奴はいまのところいない。
結局は見逃されているわけだ。誰かの手のひらの上でいいように転がされているだけ。
だからといって、使えるものを使わない手はない。他に手があるのならまだしも、ないのだからなおのことだ。
自分はまだまだガキだと認識する。再認する。それは酷く屈辱的だ。自分一人なら、こんなことはしないほどに屈辱的だ。
「よし、見張っててやるから先に行け」
「うん、わかった」
……真智のいいところは人を疑わないところだな、と感心する。誰でも、というわけではないだろうが、信じると決めたらもう疑うことはしない。たとえ信じると決めた自分を信じることができなくなったとしても。
金網はそう大きくめくれるようになっているわけではないので、必然、四つんばいになって進まなければならない。金網を越えてすぐのところは茂みがあって、だからこそ見逃されているにしても、これを潜るのはそう簡単なことではない。
つまり、真智が進むのに苦労している間、その形のいい尻を十分に堪能させてもらうことができる。スカートじゃないのが残念なシチュエーションである。これぐらいの役得がないと、甲斐がないというものだ。
もちろん、見張りという言葉も嘘ではないが、こんなものを前にしてそんなことをしていられる青少年がいたら殴り飛ばしてやるところだ。
一瞬、真智の動きが止まって、スピードアップした。どうやら気づいたらしい。
「はえーはえー」
「ヴァンのスケベっ!!」
頑張って金網を潜り抜けて、立ち上がると同時に尻を庇うようにしてこちらを振り返る。耳まで真っ赤だ。可愛いことこの上ない。
「男はスケベなもんだ。好きな女のケツを拝みたいと思ってなにが悪い」
開き直って、今度は自分で金網を潜る。少し強く引っ張れば、予想通り、開口部が広くなった。
悠々と金網を越えた俺に対し、真智はわななく手を打ち付けてきた。
「いてっ、いてっ」
「ヴァンのバカっ! 開くなら開けてよ!!」
どうやらご不満らしい。
「いいじゃねえかちょっとぐらい……」
ぶつぶつ言いながら不貞腐れたポーズを取る。ポーズというよりは本心だったが、ポーズっぽく見せるのがコミュニケーションのコツだ。
「ヴァ、ヴァンじゃなかったら許さないんだからねっ!」
そんな恥ずかしい言葉を恥ずかしそうに言い放って、真智はずんずんと病院に向かって突き進む。
こういうのも、悪くない。そんなことを思いながら、にやけ笑いを隠し切れずに、真智の後を追った。