セッションについて(5)

今回はお題をいただいたので、「ギャンブルについて」です。


TRPGは当然ながら「ゲーム」なので、「運不運」の要素を取り込んでいます。*1
いわゆる「行為判定」として、「何か行動をしようとした時、それが成功するか否か、成功するとしたらどの程度の成功を納めるのか」について、判定を行います。
この判定行為自体をまず定義します。これは当然ながら、「失敗する可能性のある行為」や、「他者と競争する行為」において行われます。
そして、「失敗する可能性のない行為については判定が必要ない」としましょう。たとえば「歩く」とか「食べる」とか「喋る」とかです。そんなことまでいちいち判定していたら時間がいくらあっても足りません。
そうなると今度は、「じゃあどういう行動なら判定が必要になるわけ?」という疑問が湧いてきます。小説のような物語的に行為判定を捉えた場合、行動は「成功するべくして成功する」ものと、「失敗するべくして失敗する」ものに分類されます。そこには不確定要素は存在しないため、判定を行う意味は、実質的には存在しません。
そして昨今の"物語性を強化したシステム"においては、「成功するか失敗するか」ではなく、「どれほど素晴らしい成功になるか」に判定の主眼がシフトしています。少なくともエンゼルギアではそうでしょう。福音は、そうした基準の表れであると認識できます。
そうなると、「成功するべくして成功する」あるいは「失敗するべくして失敗する」判定になってしまいますので、判定の意味が存在しないことになります。
*2シナリオにおいて、判定の結果が成功であっても失敗であっても、なんらかのフォローの効く構造になっている以上、場面における行為判定の結果は、ギャンブル要素が皆無です。それはロールプレイを行うために行われる判定であって、それ以上でもそれ以下でもなくなり、「物語を成立させるための判定」となり、判定の意味が消失していきます*3


しかしそれは本当でしょうか。
極論として定義します。PLの目的は*4「俺TUEEEEE」であるとします*5。その場合、「いかにして俺TUEEEEEを周囲に認めてもらうか」が主眼になります。行為判定は「俺TUEEEEEを周囲に認めてもらう行為」に代替され、行為判定の結果は「やっぱり俺TUEEEEEじゃん」を証明することになります。
そうなると、ギャンブル要素の本質が変わってきます。「行為が成功するか否か」ではなく、「行為によって俺TUEEEEEが証明・演出できるか否か」になります。そこでは、「いつ判定するか」が判定の主眼となり、そこにギャンブル性が生まれます。「必ず行為判定が成功するとして、どこで判定するかによって(自分を含めたキャラクターの)評価が決まる」からです。


これは遊び方の話であり、「そうした遊び方もある」という一例にすぎません。「必ず成功する判定」ばかりを行うのは、堅実ではありますが、ストレスは少なく、結果的に達成感も少なくなります。抑圧に対する解放こそが達成感であり、それは強い負荷、いわゆるストレス状況下からの解放によって得られるものだからです。
なので最近は「まあ成功するのはよしとしよう。だが確率的には際どいことにさせてもらう」という判定の仕方をすることにしています。なんらかの理由をつけてハンディキャップを用意する、ということですね。そうでもしないと「別に判定しなくてもいんじゃね?」という空気が支配的になるというのもあります。*6
おそらくもっとかちかちのシステム*7であれば、「行為判定」は従来通りの意味を持つと思います。しかしFEAR系のゲーム*8は、基本的に「行為判定の意味自体が違ってきている」から、「ギャンブル要素」も違うんじゃないかなー、というのがこの話の結論です。

*1:すべてのゲームがそうであるわけではありませんが、ややこしくなるのでそういうことにしておきます

*2:最近のシナリオの傾向だと思ってますが

*3:そしてそれは、いわゆる「事故」を減らすための措置であって、それ自体の良否は問われません

*4:マンチキンをすら内包する

*5:多かれ少なかれその要素があるだろう、という先入観/偏見を含みます

*6:オンラインでばっかりやってるので、判定行為自体に時間がかかるというリスクがあるせいでもあります

*7:GURPSとかシャドウランかなあ

*8:というか誤解ないように注釈を入れるならエンゼルギア