(31−8)


 とりあえず、しなければならないことがあるのはわかっていた。
 真智を部屋に返して、即座に連絡を入れたら、まだ執務中だから来るなら来い、と言われた。いったいこの人はいつ寝てるんだと思いながら、御前静中佐の執務室に向かった。
「おめでとう、ととりあえず言っておこう」
 心の底からそんなことは思っていないような顔をして、御前中佐は皮肉げな笑みを浮かべて見せた。
「これも予定調和の内だったんですかね?」
 なんとなく上官として扱うのがバカらしくなってしまったので、口調も態度も若干崩れたものになった。
「想定されたパターンのうちでは、まあマシな結論だった、とだけ言っておこう。私の考察になど興味はあるまい?」
「まあ、確かに」
 その考察とやらが、現実的に自分たちに影響を与えるものではない以上、結論の出た今になってから聞いたところで意味はない。懐古趣味としては面白いかもしれないが、あいにくと自分も中佐もそんな趣味は持ち合わせていないようだ。
「話は聞いていた。もう少し、なんだな。若者らしく暴走したらどうだ? というのが、私からのアドバイスだ」
 臆面もなく盗聴の事実を告げる。この人のこういう悪びれなさは、一種天性のもののようで、許可もなく監視されていたというのに、ああそうですか、としか思えなかった。
 それは、結局のところ、この人がなにをしたところで、自分たちには不利益をもたらさないだろう、という確信に支えられている信頼感なんだろうが、なぜそんな確信が持てたのかについては、いまだに理由が見出せないでいる。
「したらしたで困るんでしょう?」
「しないほうが困ることもある。私は手綱を握り、捌きもするが、走るのは馬だ。乗馬は、馬のしたいようにさせるのが一番いいと、祖父は言っていた」
「先人の教訓ですか。あんまりらしくないですね」
「私はこう見えて、保守的な人間なんだよ」
 年功序列を大事にする、ということか。階級社会である軍隊では当然とも言えるし、また同時にそうではないとも言えた。つまり、どっちだったとしてもらしいということになってしまう。この人は、そういう印象操作がうまい。
「貴様は考えすぎだからな。思い詰めて目の前のことだけに集中していれば、目に映るものはすべて理解できる気になるだろうが、目に映らない領域にも世界があることを忘れることになる。そんな状態でまともな判断ができるはずもあるまい」
「大層な分析で」
「なに、年の功というやつだ。これでも貴様の倍は生きている。このぐらいはなんだ、テクニックの内だな」
 くすくすと密やかな笑みを漏らし、絶対的な上位者としての立場を崩さない。この人は、だからこそ相手にしやすい。絶対にそのスタンスを崩さない相手は、常にそのスタンスと向き合うことだけを考えればいいだけだから。
 それもまたこの人にとっては印象操作の一つに過ぎず、そうやって部下に言うことを聞かせることを技術にまで昇華しているのだから、やはり指揮官としては有能なのだろう。
「それで、どうする? まだ同居したいかね?」
 そして、いきなり結論を突きつけてくる。息を吸っている時、人は無防備になると言うが、ほっとして息を吐いた直後を狙ってくる……ほっとさせて息を吐かせるということも技術として体得しているこの人には、だから逆らう気にはなれないし、敵に回したくないとすら思う。
「ええ、まあ。したくないと言えば嘘になりますが」
「なに、言わずともわかっている。『黒根少尉との夜分の面会を許可して欲しい』だろう?」
 まさしくその通りのことを言おうとしていたので、目の前にぶら下げられた餌を取り上げられたような変な顔になる。どこまで人の呼吸を読むか、この人は。
「宿泊許可は出してやる。いつでも好きに乳繰り合っていろ。監視装置も外しておく。小僧と小娘の出ているポルノを見ても興奮しないからな」
「そりゃありがたいこって」
 自分の都合で外すんだ、というスタンスを取って、そうでなければそうはならないんだ、と自分の功績を暗に仄めかす。相手を手の平の上で転がすことに心血を注いでいるとしか思えないこのやり口を不快に思う者も少なくないだろうが、自分は案外、嫌いではない。
「こんなものは序の口だ。これからいくらでも問題は出てくる。貴様がそれにどう対処するか、楽しみにしていよう」
「悪趣味な話で」
「なに、指揮官などというのは、多かれ少なかれ悪趣味なものだよ」
「さいでっか」
 悪印象を残しかねない言葉は、より大きな対象へと責任転嫁する。もうなんというか、好きにしてくださいと言いたくなる技術だ。
 するまでもなかった相談は、相談になる前に合意に至ってしまったので、さっさと退出した。会話するのが面白い相手ではあるが、なんとなく肩肘が張って疲れる相手でもある。人間、こうはなりたくないもんだという思いと、こんな人間になってみたいんだという思いを同時に抱かせる人というのは、えてしてそんなものなのかもしれない。
 自由は勝ち取った。後はこれをどう持続していくか。それは自分と、そして真智のなすべきことということだろう。
 見えもしない未来に思い悩む必要はない。とりあえず、二人で出来ることを確かめていけばいいだけのことだ。