アフタープレイとか反省会とか

実は前にこれについて大雑把になんか書いてたよなあ、と思ったりしつつ。とりあえず今回はこちら(2007-04-19 - GMブログ - game master)を読んで思ったこととか。


まず、反省会が可能か不可能か、可能であるならどういった条件を設定しておくのが一番問題が少ないのか、という設問において、「お互いに褒め合う」という結論である、という文脈で認識してます。その結論に至る過程として、「反省会は実際大変なんよ」という前提があって、ギスりたくないよねえ、という話がある、と。
よくわかんないのは、それは反省会じゃないんじゃないかなあ、ということ。褒められたことについて反省する? なんじゃそりゃ、と。なので、文章の頭のほうにある「アフタープレイの呼び方は、反省会でもディスカッションでも、何でも良いのだけれど」ってのは、ちょっと違うと思います。「お互いに褒め合う」のであれば、それは明確に「アフタープレイ」としておいたほうがいいんじゃないでしょうか。(実際、文中ではアフタープレイということになってますが)
「反省会」はあくまでも反省するのが目的なんですから、褒める以外のことがなきゃ成立しないと思います。あと、「ディスカッション」の場合は、合意目標があって議論が行われるんでしょうから、前提としての合意目標が事前に定義されているということになると思うので*1、これもちょっと違うんじゃないかなと。


という用語整理をした上で、「反省会が出来ない人がいる」というのは同意します。つまり、プレイスタイルとかポリシーとか向上心とか単純に能力とかそういうものがないので、「改善して次回に活かす」というモチベーション、あるいはインセンティブを持たない人がいるのは当然だと思うからです。別にそんな人と一緒に反省会をやりたいとは私も思わないので、「お互いを褒め合うアフタープレイ」をするというのは正しいと思います。言い方は悪いかもしれませんが、そういう人は「俺SUGEEEEE」をやるのが第一目的なんでしょうし*2、そういう人にとっては、「褒められること=俺SUGEEが認められること」が重要でしょうから。
まあ、そういうスタイルのなにが楽しいのかわからないので、私がGMをやってたら、一本道シナリオでいいように振り回して終わると思います。自主性も創造性も欠片も期待せずに。自主性や創造性があるのであれば、反省の持つ意味をないがしろにはしないだろうと思うので。


でまあ、これは以前友人と話していたことでもあるんですが、真正面からTRPGを「研鑽を積みながら」遊ぶ人というのは比率としてはたぶん少なめで、そういう楽しみを理解できない人が多いのも事実で、であるなら、そういうのはいいように操作して付き合ってくしかないよね、という結論になったことがあります。私は平等主義者を気取っているので、だからこそ操作するとかしないとかいう論法を持ち出しますが、別にネガティブな意味で使ってるつもりはありません。「そういう遊び方しか出来ない人に適した遊び方を提供している」というだけの認識です。異論とか反論とか反発とかはあると思いますが。
お地蔵さん相手に「もっとセッションにがつがつ突っ込んできてくれよ!」とか要求しても虚しいのはわかってるので、相手が「本当にお地蔵さんをやりたいのか?」を確認しつつ、そうならその通りに扱うし、そうでないなら「脱・お地蔵さん」に協力もします。自主性を尊重したいと思っていますし、自分に可能な範囲でそうしています。
お地蔵さんスタイルは否定しませんが、お地蔵さんスタイルの人がPC1やりたいとか言ったら「俺はストーリーにがつがつ絡んできてシナリオ崩壊させるぐらいアクティブなPC1を要求する人だから」と事前に断った上で相手のお地蔵さんスタイルを無視してPC1であることを要求します。私がそういう流儀だから、というのと、相手がそれを受け入れたんだから、という両方の前提があるからです。結果、その人がお地蔵さんを脱却できなかったとしても、それは問題ではありません。やろうと思っただけで出来るなら、研鑽なんて存在しませんから。


重要なのは、「誰が何を嗜好しているのか」ということと、「その人はその人のスタイル以外のスタイルについて知っているのか」だと思ってます。経験とか、環境とか、いろいろな要素で、「お地蔵さんであることを求められる」スタイルが定着している人は、「ストーリーにがんがん突っ込んできてアドリブかましまくる楽しみ」を知っているんだろうか? と思うからです。
「やりたいけどできない」と思っているなら、その気持ちを引き出して、やれるようにしてあげればいいだけのことです。「やりたくないからやらない」のであれば、私的にはじゃあさようなら、というだけのことです。もちろんこれは、私がサークル環境で遊んでいるという前提に立った意見ですが、少なくとも私は、「やりたいと思っている人の手助けをする」ぐらい、なんの苦労とも思ってませんし、そのぐらいのことはできるとも思ってます。
指導的立場とか教導的立場からそう考えているわけではありません。そう見えたとしても、それは違います。「相手の知らないことを教える」ということは、「自分の知らないことを教えてもらう」と同義だからです。相手がなにを知らず、なにを知ろうとしているのかについての相互理解がなければ、手助けなんかできません。


まあ、その目的についての言語化というのが一番の難関だ、というのはありますが。

*1:なんか意味重複気味の日本語だなあ

*2:偏見込み