複製される模倣子を構成するもの

ミーム - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%A0

とりあえずこの定義を取り上げてみます。

脳内にある情報の単位 (Dawkins, 1982)

で、攻殻機動隊では、「他人の中にある自分という情報」あるいは「自分の中にある他人という情報」のように扱われていましたが(と私は認識していますが)、さて、ではこの話を踏まえた場合、それは果たしてコピーと呼べるのだろうか? と疑問が湧いてきました。

同じ反応でも違う感想 - TRPG履歴
http://d.hatena.ne.jp/standby/20080219/p2

この場合、言語化される模倣子は「トンカツの美味しさ」となるのかもしれませんが、「トンカツの美味しさ」を実際に構成するのは、主観的自我、いわゆる「自分」であって、「トンカツの美味しさを伝える他人」ではありません。
要は、情報は受け手が取り入れる段階でフィルタリングされ、加工される、という部分が存在する、ということです。
では、加工されてしまったものを「コピー」と呼べるのだろうか? と。
意思疎通の幻想、という言葉を最近やたらと使っていますけども、(私がいま理解している、という前提の)模倣子という概念自体が、そうした意思疎通の幻想の産物に思えてならないわけです。
だからなんだって話でもないんですが。現実よりも幻想が優先される条件というものについてつらつらと考え中。