先達に学ぶ/先達から学ぶ

違いを簡易化しましょう。
「先輩から直接指導を受ける」と、「先輩の活動から学び取る」の差です。
困ったちゃんのまとめサイトを見ると、前者は嫌われ、後者がよしとされる傾向があるように感じました。ただしそれは、2ch特有の「半年ROMれ」の前提からそうした傾向になっている可能性もあるので、絶対の指針ではないとして、それでも前者が嫌われる理由があるとすれば、それはなんだろうか、という疑問です。


結論から言ってしまえば、「自由に遊ぶゲームで、なんで先輩の言うことを聞かなきゃいけないんだ」という反感、ではなかろうかと思います。自分ならそーかな、って程度の意味で。
とりあえず、言葉の意味をいちおう定義して、誤解の余地を減らしておきましょう。前者は教育を志向していて、後者は学習を志向している、とします。

Yahoo!辞書 - きょう‐いく【教育】
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E6%95%99%E8%82%B2&dtype=0&dname=0na&stype=0&pagenum=1&index=05182804528600

1 ある人間を望ましい姿に変化させるために、身心両面にわたって、意図的、計画的に働きかけること。知識の啓発、技能の教授、人間性の涵養(かんよう)などを図り、その人のもつ能力を伸ばそうと試みること。「―を受ける」「新入社員を―する」「英才―」
2 学校教育によって身につけた成果。「―のある人」

Yahoo!辞書 - がく‐しゅう【学習】
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E5%AD%A6%E7%BF%92&stype=0&dtype=0

1 学問・技術などをまなびならうこと。「―の手引」「―会」
2 学校で系統的・計画的にまなぶこと。「英語を―する」
3 人間も含めて動物が、生後に経験を通じて知識や環境に適応する態度・行動などを身につけていくこと。不安や嫌悪など好ましくないものの体得も含まれる。

乱暴に結論付けますが、教育というのは、成果主義のように見えます。あるべき姿を定め、そうなれるように努力する(=なれない場合は教育の出来が悪い)からです。自由を尊ぶTRPGにおいて、成果主義という教育はあまり相性がよくないようにも見受けられます。
一方の学習は、自らの経験と知識によって学び取っていく、自主性を重視しているように見えます。TRPGとの親和性はこっちのほうが高そうですね。ただし、そこに好ましくないものの体得も含まれる、というのが非常に示唆的です。


また、TRPGに必要とされる想像力を育てるという点で、学校教育型の教科書主義は好ましくないと思われているのではないでしょうか。
しかし、公式リプレイである程度育った私の視点からすれば、それはおかしな話で、そもそも学校教育ですら、想像力を育てるための教育ではない、という前提がすっぽり抜け落ちているのではないでしょうか。
子供の想像力とか創造性なんてものは、むしろ家庭で教え、方向付けるべきもので、学校という場では社会的な教養やコミュニケーションを学べば十分なんじゃないかという気がします。文字の読み書きが出来て、四則演算が出来て、みたいな。
まあ学校教育をドロップアウトした私が言うこっちゃないと思いますが、公式に手本以上の模範を求めすぎる結果として、困ったちゃんに代表される歪んだ個性が生まれるように思えます。


まあそもそも人間なんて多かれ少なかれ困ったちゃんなんだから、困ったちゃんを困ったちゃん扱いするよりは、こういう行動は迷惑になる場合が多いから気をつけようぜ、という事例として理解すべきじゃないかとかは思いますけども。
教科書的な機能として、困ったちゃんのまとめサイトは優秀だと思うんですけども、困ったちゃんに対する攻撃・排除や、自己弁護・自己防衛に終始するのではなく、自分がもしそういう行動を取るとしたらどうしてそんなことをするんだろうか、ということを考えて(想像して)、はじめて役に立つのではないかと思います。
まあストレス解消に役立てるだけでもいいんですけども。それじゃあ面白くもないバラエティ番組をおもしろくないと言いながらげらげら笑ってるような感じで先がないよなあと。


しかしもっとも大きな難関は、趣味の時間でまで学習エネルギーを使いたくない人というのが、けっこう多いってことだと思います。たぶん全体の九割ぐらいじゃないかななんて。スタージョンの法則で言うところの、全体の90%に該当する人たち。
他の人がやってないことをやらない限り、永遠に90%に囚われ続けることになるんですが、無自覚に虜囚になり続ける人のほうが、たぶん永遠に多いんだろうと思います。スタージョンの法則が正しいとすれば、全員が学習する環境が整った場合、そのうちの10%が残りの90%よりも多く学習することになるだけなわけですから。
もっとも、重要なのは自分が10%に含まれるか90%に含まれるかという議論ではなくて、「自分は90%に含まれるかもしれない」という自覚を持って学習に取り組めるかどうか、でしかありません。「無知の知」でもいいんですけども。学習で言うところの「好ましくないものの体得」として。


教育的であれ学習的であれ、努力が必要になると思うんですが、向上心から目を背けて教育やら学習やらの機会を喪失し、機会そのものを偏見を持ってみるようになるのは危険だよなあ、なんて思います。