電源系ゲームの視点でプレイヤとキャラクタを見る

ここの発表資料がちょっと面白かったです。

JANOG12- Special session in N+I 2003
http://www.janog.gr.jp/meeting/interop2003/

オンラインゲームの基礎知識
http://www.janog.gr.jp/meeting/interop2003/SS_intro_web.pdf

特に12Pの「画面の役割」について。


TRPGでは「画面」という要素は意識しづらいですが、シーン制などでは比較的、擬似画面機能があるように思います。共有される場面としての画面=シーン、と。
でまあ、そういう要素を共通項として考えてみるのが今回の趣旨です。
そこで、この文言が生きてきます。

プレイヤーキャラクタが画面に出なくても、何らかの情報が画面に表示され、それをもとにゲームを進める

シーンプレイヤー(という仕組みがどのシーン制でもあるのかはわかりませんがあるものとして)以外のPCがシーンに出ていなくても、シナリオとして何らかの情報がシーンを飛び交っているため、それを元にゲームを進める、ということです。
言い換えれば、誰にとっても無駄なシーンはない、ということになります。当然PCはゲーム的制限によってシーンに登場できなくなることもあり、PLとPCの分離が促進される面もありますが。
しかし、PLとPCの分離という意味では、いわゆるコンシューマ機では当然のように行われているものです。それは下記の文言からも推察できます。

ほとんどのゲームは画面中のプレイヤーキャラクタを動かすことで成立

「ゲーム画面のキャラクタを動かす」という意識が、常にプレイヤにはある、ということです。TRPGでこれをやると「集中してない」とか「没入してない」とか言われかねませんが、しかしプレイ人口においてTRPGよりも全然多いCRPGでこうした状況及び前提があるということは見逃せません。
ここでざっくりと「プレイヤはキャラクタと自分との区別がついている」とします。いわゆるメタプレイ耐性or素養がある、ということです。逆に、キャラクタになりきる遊びは不慣れと言い換えることもできるかもしれません。
そうすると、次の結論がより強調されます。

よって、画面がちゃんと出ないと話にならない

裏を返せば、「画面を見ていないと話にならない」わけです。
実際、シナリオというものは、GM"だけ"が楽しいものであったり、特定のPL"だけ"が楽しくなるように作っているものではありません。そういうのもあるかもしれませんが、それは本道ではなく、参加者全員が楽しむようになっていると思います。
PCはともかく、PLはいつでも参加できるし、参加しているわけです。この点は、メタ視点が嫌いな人でも考慮してもいいポイントじゃないでしょうか。


実際には、CRPGでは、プレイヤとキャラクタの分離を、キャラクタの行動へのプレイヤの介入を限定的にすることによって強制的に行っているので、そのままTRPGに持ち込むことはできません。
プレイヤがどんな情報を知っていたとしても、たとえば攻略情報を知ってエンディングのオチまで全部知っていたとしても、キャラクタはシステムに沿った動きしかできないため、無茶なショートカットや立っていないフラグを無視することはできない、ということです。
ぶっちゃければPARのようなツールを使ってデータを無敵に改造したところで結局は敵は倒さなきゃいけない、ってことです。
TRPGがそうであってはいけない理由はあるんでしょうか? 私にはぱっと思いつきませんでした。
もちろんTRPGの独自性が云々、なんて言葉も思いつきますが、それはTRPGをゲームとして遊ぶ上でなんの関係があるんでしょうか? TRPGの独自性というのは、CRPGとは違う、なんて点にはまったく全然これっぽっちもありません。その差別化を図るのは無意味で無駄な努力でしょう。


そして、13Pの「ちゃんとした画面の定義」は、そうしたCRPG(というかネットワークゲーム)とTRPGの類似性を強調しているように思います。

ユーザーの操作に遅れることなく確実に反応が画面に反映されること

TRPGでは基本的にこれは保証されています。GMのスペック等々も阻害要因としてはありますが、それでもリアルタイムフルコミュニケーションとして、(面と向かい合ってるんだから当然とも言えますが)TRPGは優秀です。
そして、ユーザの可能な操作という一点において、TRPGの自由度は半端ないわけです。
システムの枠にはまった遊び方"も"できるし、それを逸脱した遊び方"も"できる。自由だから自由にしなきゃいけないわけではなく、自由に遊ぶことができる余地が大きい、とTRPGの自由度を考えるべきなんじゃないか、と私は思います。
「行儀のいい遊び方」もできれば、「行儀の悪い遊び方」もできるし、実は面白いのは「行儀の悪い遊び方」だったりする。その辺がTRPGの自由の奥深さじゃないかなと。
この辺も、CRPGによって「行儀のいい遊び方」を強制されている反動じゃないかしら、なんて気もしますしね。