捨てる勇気

最近、外部の、特に個人サイトではないサイトの引用を多用してますが、これは露骨な権威の取り込み政策です。良い子の個人ブログでは真似しないほうがいいと思います。
権威におもねると権威の失墜に巻き込まれますので。と言いつつ今回も引用です。

女子校を再生! 学校改革で偏差値20ポイントアップ:NBonline(日経ビジネス オンライン)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/skillup/20080620/163148/

 「改革当初は学校をつぶしてはいけないという焦りから、あれもこれもとやり過ぎて、ほかの教員から『改革の方向性が見えない』と指摘されました。おかげで、『捨てる勇気』を持つことが大切だと気づきました。お金や人材など、資源には限りがあります。どこを捨ててどこを生かすのか、改革の軸をぶらさずに決断していくことで、目標が明確になりました。これにより、皆のベクトルが合って、継続的な成長ができたのだと思います」と漆さんは言う。


TRPGのシステムは、果たして万人向けに作られているだろうか? と考えた場合、これは大体の人が否と答えるでしょう。
アリアンロッドアルシャード。概観すれば、同じ「ファンタジーTRPG」です。さて、ユーザ層はどこまで被っているんでしょうか?
アリアンロッドクトゥルフ。共通点といえばTRPGであることぐらいで、システムも方向性も全然違います。さて、ユーザ層はどこまで被っているんでしょうか?
アンケートデータとか持ってないので実際のところはわかりませんけど、私の感想として、アリアンロッドアルシャードを同時並行に遊ぶぐらいなら、アリアンロッドクトゥルフを同時並行で遊ぶと思います。
アリアンロッドアルシャードが同じ「ファンタジーTRPG」なら、性に合いそうなどっちかのファンタジーを遊べば、もう片方はとりあえずいらない、と思うからです。
これもまた、捨てる勇気です。捨てなきゃいけないってことではなく、捨てることによってリソースを集中するとかのメリットであり、同じファンタジーTRPGでも、自分に合ったファンタジーTRPGを選択し、より楽しもうとすることです。


システムレベルでの取捨選択もあります。アルシャードは派手指向っぽいし、アリアンロッドは堅実指向っぽい、というイメージが私にはあります。少なくとも、アルシャードでできることとアリアンロッドでできることは違うし、同じである必要も必然もありません。別のシステムなんですから、別のことができるべきです。DQとFFみたいな違いってのが一番イメージしやすいでしょうか。
プレイレベルでの取捨選択は、そうしたシステムレベルの取捨選択に乗っかります。アルシャードアリアンロッドっぽく遊んだり、その逆の遊び方もあるだろうし、否定もしませんけど、どうせなら元からある特色を活かしたほうが楽だし、システムもそれに準じた作りになってるはずです。ま、システムの趣旨なんて誤読されてなんぼって気もしますが。それも含めて。


あれもこれもなんでも、という我侭は、場合によっては好奇心と向上心の発露ですから嫌いじゃないですけど、人間のリソースには上限があるし、個々人でリソースは異なる以上、全員が同じ程度のリソース消費で一緒に遊べるようなシステムを選択して、遊び方を選択するべきでしょう。
金メダリストと小学生が100m走してどうするの、みたいな状況はいかんと思うのです。あえて直接的な書き方しますけど、条件を同じにするために金メダリストにハンデいっぱいつけることになるかもしれませんが、金メダリストは金メダリスト(レベル)同士、小学生は小学生同士"に思える"遊び方をしたほうが、精神的にも健全でしょう。ハンデなんて変な負荷かけるだけですからね。
そして、小学生はたぶんどう背伸びしても金メダリストレベルの100m走には追従できません。ゲタを履かせることはできないわけです。そして、短距離走の選手と長距離走の選手を競わせたって不毛なわけです。どうせなら将棋でもやってなさいって感じです。ここまでの例に倣うなら、アリアンロッドが好きな人とアルシャードが好きな人が遊ぶならクトゥルフを遊んだほうがいいんじゃねえの、ってことです。


論旨が迷走してるのでまとめます。
「システムの選択=取捨選択」で、遊びたい傾向が決まります。
「システム内リソースの選択=取捨選択」で、実際にやりたい遊び方が決まります。
そうした方向性を明確にすることによって、「プレイスタイル=方針」を明確化し、他の参加者との摺り合わせを明確化したほうが、「意思疎通がうまくいかない=空気が読めない」事態を避けやすくなります。


「誰とでも、どんなシステムでも遊べる」なんてのは妄想です。それを押し付けるのは迷惑です。遊びたくもないシステムへの誘いを断れないのも迷惑です。みんな自分がやりたいことがやりたいんです。やりたいことをやりたいとも言わずにやれなかったなんて言われるのも迷惑です。
言わずにわかれというのは空気を読むのではなくただのエスパーです。空気を読む起点は確実に発言にあります。恥ずかしくてやりたいことが言えないとか、人間関係に遠慮して言えないなら、それは別にやりたいことではないんです。少なくとも周囲にはそう理解されます。「本当にやりたいことなら言えるはずだ」ぐらいに周囲は勝手に思い込みます。


まあ、そこまで強烈な自己主張なんて、いつでも必ず持ってるわけでもなく、大概は好奇心に突き動かされて玉虫色な状況で楽しむだけです。そうしたきっかけが有効に機能することだってあるし、悪いわけでもありません。いいわけでもないですけど。
自己主張するタイミングと理由を間違わないことが空気を読むってことだと思いますが、まあ大概それが難しいんですよね。