恋愛なんて気が狂ったようなもの

コメント欄でのこのやりとりは面白いなと思ったので、部分抽出しちゃいますよ。

Aの魔法陣ガンパレ篇の“前衛的な”内容構成――重なりあうデザイン思想 - G&G, Inc. blog
http://d.hatena.ne.jp/gginc/20080830/1220051377#c

id:gensouyugi
やはり、愛というか思いは文章に必要なのかなあと思ってみたり、

id:gginc
愛かー。私は愛とは何かよくわからないんですよ(笑)。

そしてこのフレーズで思い出したのがこの作品。
十人十色の(恋)愛があるよーみたいな見方もできます。環境問題と絡めたところが個人的には秀逸だと思ってます。

愛でなく - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E3%81%A7%E3%81%AA%E3%81%8F

以下本文はなにかを「好き好き大好き愛してるっ!」って思ったことのある人が対象ですよ。たぶん。


ある知り合いの偉い先生(嫁さん経由で一緒に食事しただけなので知り合い)が言ってました。
「恋愛なんて気が狂ったようなもの」と。
的を得ていると私は思ったんです。気が狂った、という表現をどう捉えるかによって、反応がわかれそうな話ですけども。


気が狂ってる時って、気が狂ってるってわかんないんですよね。
で、その状態が過ぎ去って、あるいはその状態から別の状態に変化して、初めて、気が狂ってたのかもしれない、と振り返ることができます。
「気が狂っている」という状態があるだけ。そしてそこに善悪はない。ただ状態がある。それを観察する人の中の善悪だけが、その状態の善悪を決める。あくまでも外部的に。
何度も何度でも書きますけども、気が狂ってるということがいいか悪いかなんてのは無駄です。「社会的に」その状態が受け入れられるかどうかでしかない。気が狂っているという状態自体が、外部的な要請に基づいて発生する「異常性」でしかないから。
そしてその状態である時には、自分がそうであるかどうかは判断がつかない。だって気が狂ってるんだから。


「愛とは何かよくわからない」っていうのは、なるほどその通りだろう、と私は思うわけです。「気が狂った(熱に浮かされたような)状態」だけがあって、人はそれに愛と名前をつけるのかもしれないし、人によっては気が狂ってるだけだと判断するかもしれない。
私はid:ggincさんはこの「気が狂ったようになにか(TRPGとか批評とか)に取り憑かれた状態」に見えるし、id:gensouyugiさんからは「愛を感じる状態」に見えるけど、id:ggincさん自身は、自分の状態がわからないだろうと思うし、自分の状態がどうなのかなんて、自分自身で言っても説得力なんてないと思うから。
(余談ですけど、占い師が自分のことを占えないっていうのはこういうことじゃないのかなとか思ったり)
始めたのが中学生の頃からだから、私は十年を超えてTRPGを続けているわけですけど(セッションを行うほどアクティブではない時期もあったけど)、その情熱、あるいはTRPGに対する愛があるような状態がなんなのか、私にはわかりません。
そうしたことに自覚的で、動機的ななにかを理解している人もいるかもしれないけれど、私はそうした動機には最近あんまり興味がなくなってきてて(前はわりとかなり積極的に意識しようとしてたけど)、やりたいからやってるし、たぶんやりたい限りは続けていくと思う。それが年をとったってことなのかなあなんてのも(関係ないけど)思ったりもする。
なにを考えてもTRPGのネタにしていた、なんていうのは、「取り憑かれた状態」以外のなにものでもなかっただろうと思うし、なぜそこまでしていたのかなんてのは、結局のところ私にもわからないです。ただまあ、普通じゃない状態だったな、ぐらいは、振り返ってわかりはします。
はっきりした理由ってのは、わかりやすいけど、逆に動機のような理由がなくなってしまえばやめてしまうということでもあるだろうから。それがいいとか悪いとかいうことではなくて、それだともったいないと私は思うから、その辺は気にしてません。


この年になっていまさらと思われるかもしれませんけども、努力というものの意味とか価値とか、ようやくわかってきたような気がします。「継続は力」というのはまさにその通りで、やらなきゃうまくならないし、やり続けなきゃうまくはならないです。これはたぶん絶対。脳がそういう仕組みになってるみたいだから。脳を効率的に運用できる才能はあるかもですけどね。
理屈としてはわかってても、体感できるかどうか、さらにいえば体得できるかどうかは全然別の話で、わかってるなんて思えることは、たぶんわかっていないんだし、わからないと思える状態の時のほうが、わかってる状態に近いんじゃないかと思います。
言葉は多くのことを伝えられるだろうけど、全部は伝えられないし、実際にはそんなに多くのことは伝わらない媒体でしかないです。伝えることが多すぎるから。正確には意味を伝えるためには多すぎる前提を伝えなきゃいけないから。個々人が持ってる前提に意味づけを丸投げすると、だいたい伝わらないか、誤解されます。
ブクマコメントでネガティブなことしか書かない人がいる、って話をどこだかで読みましたけど、ああいうのはそういうことに近い現象なんだろうと思います。ネガティブにしか意味を解釈できない人には、なにを言ったってネガティブにしか伝わりません。それは発信者にとっては誤解されてる状態だけど、ネガティブに受け取った人にはネガティブなのが真です。
(そういう人もたまにはいます。私の知り合いにもいます)


結論を出すためには相当な時間と分析と理解が必要で、少なくとも(現在進行形の事象を扱った)ひとつの記事を読んだりしただけじゃ、結論なんて出せない。仕事でもそうですけど、なにか問題が起こったとして、問題が発生した時点での状況分析のメールだけで結論に至るのは危険だし、そこで結論に至っちゃうと、後からわかってきた状況を斜めから見ることになっちゃうから、先入観が邪魔をして本当の原因に辿り着けなくなっちゃうことも多い。
かといって、仮にでも結論を出さないと、考える道筋が立てられないから、仮にでも結論を出す必要はある。でもそんな仮の結論には、なんの意味もないです。修正が前提にある結論は道標でしかないし、道標は結論という目的地にはなりえません。
そんでもって、まあここで個人差が出ますけども、妥当と思える範囲で情報収集をして、状況の外観とそこで起こった事象、事象を構成する状態を把握して、結論を出します。
その結論は、結論を出した人だけのものであって、他人と共有できる結論があったとしても、それは共通の理解(合意)が可能な枠組みを定めて、その枠組みを理解しているだけであって、内実についての完全な一致を見ているわけじゃないわけです。
ひとつの結論に何種類かの理解があってもおかしくないってことです。「AをするとBになります」と「実はA’をしてもBになります」は両立するし、原因がAかA’かは厳密には切り分けられないことも多いと。でも「BになったのはAかA’をしたからです」ということは共有できます。結果としてBさえ理解できていれば、Aが起こったかA’が起こったかは、案外すれ違ったままでも話は進むし、お互いに理解した気になれるものです。ま、それもまた事故要因になったりもしますが、それはさておき。


余談ですけど、「気が狂ってる状態」の人が事件を起こしたとして、外部者は「気が狂ってるからそんな事件を起こしたんだ」と納得することによって安定をはかる(非日常の日常への侵食を防ぐ)防衛反応を示すわけですけども、人によっては「なぜ気が狂ったのか」とか「気が狂ってるというのはそもそもどういうことか」とか、「本当に気が狂っていたのか」とかを考えるだろうと思います。
「気が狂ってたせいだ」ってわかりやすい結論が一般的な合意事項で、そっから先の分析はだいたい専門領域扱いです。一般的な合意事項は世論になりますが、それは真実とは無縁なものです。
それで誰も困らないし。真実よりも誰も困らないほうが大事。世論はそういうものだし、マスコミだって(たぶん)そういう装置。真実を本当の意味で欲しているのは極一部だし、すべての真実を明らかにしても得をするばかりじゃないです。真実を独占する権力者みたいなのがいてもいいと、私は思います。それが有効に機能するのであれば。そして有効か無効かを決めるのは、実際には後代でしかないですから、私はそれを判断することはしないしできないと思ってます。
GMっていうのはそういう装置ですよね。シナリオによる設定という真実を独占して、情報格差による権力を持つことができる。これに関連した話は次のエントリで書きます。


相変わらず長文を書くと論点がぶれまくりですけども、焦点は「愛なんてみんなが勝手に感じるもんだけど、"愛している状態"なんて自覚できないもんだ」ってことです。そして外野のほうが、案外その辺を冷静に見てたりするもんです。「こういうのが愛だろう」って外野の思い込みに基づいて。
愛にも憎しみにもこれっていう形はないんだから、わかるもんじゃないし、ただ感じるだけのもんだろうし、感じてる時はわかんないと思いますよ。という、id:ggincさんへの私信みたいになって唐突に終わる。