制約の価値

ルールという形での制約・束縛はなんのためにあるのか、という根本的なお話。
これは別に唯一絶対の真理があるわけではないだろうな、という前提の元での思索ではあるんですが、いま裏でごにょごにょ画策しているものとかにも関わるし、意見が相違する人とは、楽しく遊べないとまでは言わないまでも相違していることを認識しないとどうにもならんだろうと思うので、あえてここで自分の考えを整理してみる。
で、まずいま思いつく結論は、「思考の節約」です。


例えば、現実をリアルにシミュレートしようとすると、PC一人を表現するにも膨大な能力値とかが必要で、要は変数が大量に必要になります。これは非常に煩雑で、かつ人間の脳味噌で処理させるには、ちと処理が重い。「現実世界→抽象化して数値化(→判定が可能なような整理)」が必要になるので、抽象化レベルが低い(=現実のまんま)と大変、と。
そこで、人間の脳でも処理可能なレベルに抽象化しよう、ということになる。大きく言っちゃえば、これがルールです。現実を抽象化して、共通理解が可能かつ数値的に処理が可能な仮象を構築することがルール化で、そこには制約が伴う、ということです。制約するための制約ではなく、ゲーム的ルール化するために必然的に現れる制約である、と。
数値化することがなぜ必要かといえば、共通理解が容易だからです。可能だからではないです。数学を万人が理解できると思ったら大間違いですが、ある程度の人は理解できるだろう、ってだけのことです。数値化は道具にすぎないってことですね。目的ではない。


抽象化すると今度は細部が曖昧になるので、現実に即した考えをしているだけでは逆に処理ができなくなったりもします。例えばアクションゲームとか格闘ゲームで、「現実の人間は自分の身長の倍も垂直跳びはできない」なんてことを考えてたら、なんもできません。「空中でさらにジャンプすることなんてできない」とか。この辺がリアルリアリティが排除される理由です。「ゲームでそんなこと言ってどーすんの」ってことです。まあ原因は抽象化ではなく設定の問題なんですが。抽象化と設定はある程度関係してくるにしろ、例としては不適切です。
ともあれ、ある程度は事前に「ゲーム内における現実との差異」を明確にする必要があります。まあ現実の認識にはパーソナルリアリティが関わってくるので、どこまで説明しても誰でも理解できるようにはなりませんが、ある程度の人が理解できればよかろうという説明になるわけです。
そうやってある程度抽象化し、共通理解が得られれば、「現実との差異」について、考える必要が減ります。それが「思考の節約」です。「このゲームではこういうことができる」というのは、「このゲームではこういう風にすればこれができる」ということです。「幅跳びで10m飛ぶ」が目的なら、現実だと「筋力トレーニングをしてフォームを調整して(あれやこれや)」という煩雑な処理が必要になりますが、ゲームなら「能力値を上昇させるか技能を伸ばすか運に頼る」という大雑把な処理でよくなる、ということです。
これはわりと大事なことだと思ってます。


で、案外、ゲームって自由なもんじゃないです。出来ることよりは、やっぱり出来ないことのほうが圧倒的に多い。それでいて、ゲームなので運の要素ですらある程度自由にできますけども、それはそれで自由にできすぎると逆につまんなくなったりもします。「必ず一億円当たる年末ジャンボ宝くじ」は、現実ならゲーム的に愉快かもしれませんが、ゲームの中でやってもなんだかな、です。「できて当然のことができても面白くはない」ってところでしょうか。
ここでルールの「共通理解のための基盤」及び「思考の節約」とは別の側面が浮かび上がってきます。「あえて制約を施すことによる、制約からの解放」です。まあこれはただの演出にすぎませんけども。でもカタルシスは、それはそれで大事なものです。モチベーションとかいろいろなものに関わりますので。
裏返せば、システム、あるいはゲーム固有のルールによって、なにが「可能」でなにが「制約」されているのか、「現実よりも可能なことが多い行為」と「現実よりも制約されていることが多い行為」とはなんなのか、そこにルールの「目的」あるいは「意図」を見出すことができる、のかもしれない。できたらいいなあ、なんていう希望。