選択と思想

いや、思想なんて言うほど大げさな話じゃないんですが。単なる気持ち、気の持ち方の話。
こんな思考実験。
「そこそこお金のあるあなたを頼って、両親をなくした親戚の子がやってきました。あなたは親戚の子を不憫に思って受け入れ、養ってあげたいと思いました。
でもあなたには、すでに養子がいて、そのために経済的には親戚の子を受け入れる余裕はありません」
そんな状況の時、"あなた"は「血の繋がらない養子」を「血の繋がっている親戚の子」よりも重視するような考え、思想、価値観を元から持っていたんでしょうか?


そんな価値観ではなかったんでしょう。"たまたま"親戚の子が養子の後に来たからそういう状況になっただけです。だから人によっては養子を追い出して親戚の子を養うことにするかもしれない。まあそれはそれこそ価値観の問題なのでどうでもいいです。
でも、選択というのは、常に状況によって要請されるものです。「血の繋がっている親戚の子」がやってくることがなければ、「血の繋がらない養子のほうが大事」なんてことを考えることすらなかったんじゃないでしょうか。


状況というのは、価値観とは関係なく訪れるものだ、というのがこのエントリの主眼。
どんな慈善家でもすべての人に施しを与えることはできない(上から目線とかいうの禁止)。無限のリソースは存在しない以上、有限な選択肢の中で、取捨選択をする必要がある。これは誰でもいっしょ。
"価値観"というものは、選んだ結果、身についていくものじゃないだろうか? とも思ったんです。なにかとなにかを比べた時に、「(比べた時点での)自分にとって」重要なほう、もっといえば必要そうなほうを選択し、"選択したことを肯定する"ように価値観を構成していくんじゃないか、ということ。
それは選択を後悔しようと後悔しまいと関係なくて、「後悔することによって選択を肯定する」のか、「後悔しないことによって選択を肯定する」のかの違いでしかない。後悔は先に立たないと言いますが、そりゃあ選択の結果を肯定するための装置なんだから当然のことです。後悔した結果として自殺したとしても、選択自体を肯定できなければ、自殺なんていう結論には至れません。
選択を肯定していなかったら、後悔の元が存在しないことになりますから。選択の否定というのは、選択そのものの否定にしかなりません。選んだの対義語は、別のものを選んだではなく、選ばなかった、です。


「状況に流される」という言葉があります。周囲(世界、でもいいです)に与えられた状況で、その時々に必要な"選択"を行っていった結果、「状況に流される前」には想定もしていなかったような状況になった時に使われる言葉です。
なんで流されるんだろう? と考えた時に、(事前に)はっきりとした"価値観"なんてものを持ってたとしても、状況というのは"価値観"で正否を判定できるようなものじゃないことのほうが多くて、つまり「どっちを選んでもいい選択肢」ばかりで、そうなると「自分にとって重要」かどうかだけが判断基準になっちゃうから。だと思うんです。
この場合の価値観って、正否の判定基準じゃなくて、重要度の基準のことです。すごく些細な違いかもしれませんが、これってすごい大きな違いなんじゃないだろうか、と思ったんです。


最初の例に戻ります。
価値観が正否の判断基準、である場合。
「先に養っていた養子を養い続けるのが正しい」か「血の繋がった親戚の子を養うのが正しい」という判断の比較になります。この場合の正しいの基準てなに? 正しいってどういうこと? って思うんです。それって自分の状況を客観的に見た場合の(それこそ世間とかそういう外部判断装置の)判断じゃないの? と思うんです。判断自体を丸投げしてる。ひどい言い方をすると、判断の責任を丸投げしてる。空気読んでるのかもしれないけど空気読んでるだけだよね? と。
一方、価値観が重要度の基準、である場合。
「先に養っていた養子を養い続けるのが必要」か「血の繋がった親戚の子を養うのが必要」かの比較になります。これは自分が主体的に、主観的に判断することになる。しなくちゃいけない。そうなると判断の責任も自分が負わなきゃいけない。誰かが決めたことじゃない、自分が決めたことだから。空気は外部要素で間接要素で判断基準にはならない。


どっちがいいというわけでもなく。まあ私的には後者のほうが馴染むというのはあるとしても。
その選択方法で、その選択結果を肯定できるのはどっち? ってことだと思うんです。そうして肯定できる選択結果を積み上げていける=価値観を育てていけるのはどっち? ってことだと思うんです。
いいとか悪いとかじゃなくて。方法論なので。もちろん、価値観には別の使い方もあるのかもしれないし。
ただ、やたらと決断を避けたり、それこそ自分の責任になる判断を避けようとする人というのは、価値観を育ててこなかった、そしてこれからも育てていけない、そんな人なんじゃないかなあと思ったんです。まあどこを見てそう思ったかは置いておいてください。いつものまとめサイトです。


まあもっとぶっちゃけると、価値観を正否の判断基準にしちゃって、外部判断装置の(下しそうだと考える)判断に従って判断しちゃって、自分の価値観なんてそもそも育てられんの? という疑問は感じてます。それこそ面白いぐらい状況に翻弄されるだけなんじゃないの? とか。
でもまあ、それは私がそういうのを知らないだけかもしれないですし。それでも育つのよってことはあるかもしれないので、否定はしません。実感できないから肯定もできないけど。


この辺はキャラクター造形の類型として、そういうのもあんじゃねーかなーというNPC描写の一環として考えただけです。
優柔不断な人は、空気に敏感で、過敏すぎて、"正しい判断"しかできない人。自分がどう考えてるのか、って周りの人に思われてるのかが大事な人、とも言えるかも。自分の判断より周りの人の判断のほうが大事。だから意見もふらふらするし、大局的にはどこかで道を誤る。他人がなにを考えてるかなんて絶対にわかりっこないから。
果断な人は、空気はわかっても、意図的に無視しちゃえる、"自分の判断"ができる人。って書き方をすると優劣をつけちゃうので、"自分の判断"しかできない人。でもいいや。周りの人がどう思うかよりも先に、自分がどう思うのかが大事な人。こういう人は周りの人の事情をあんまり考慮しないので敵も多かったりする。カリスマ性があれば味方も多い。そんな人。
ま、一番いいのは両者のバランスが取れてる人だと思います。ただNPC描写としてはどっちかに振りきれてるほうがわかりやすいんじゃないかな。