主題の不在

TRPGとは○○をするゲームである」
というような、明快な目的の不在がTRPGにはある、という前提から始まります。
前提自体の誤りとかは、とりあえず横に置いておきます。前提が誤っている、あるいは異なっていると感じた方は、そういうエントリを書いてもらえれば私も勉強になるし他の人も違った意見が見れるしでみんなハッピーになれると思います。できれば本論の否定だけではなく、代替案になるようななにかが見たいです。


大元はこちら。

TRPGによるソーシャルスキルの獲得 - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む
http://d.hatena.ne.jp/accelerator/20081219/p1

派生はこちら。

TRPGによるソーシャルスキルの獲得を読んで
http://anond.hatelabo.jp/20081220144315

で、このエントリ自体はさらなる派生という位置づけで。


いま考えてる抽象化システムに付随する話として私は認識したのですが。
ものっすごく単純化しちゃうと、「で、TRPGは"物語"を遊ぶの? "ゲーム"を遊ぶの?」ってことに尽きるのではないか、と思うのです。で、いま考えてる抽象化システムは、それを明確に分離できるように設計している、という宣伝はともかく。
この文脈の中に「TRPGで"学習"する」というのが出てきてもおかしくないし、違和感も感じません。それが"指導"だったりしてもかまわないと思います。合意さえ取れるなら。
先に上げたよそ様のエントリから抜粋しますけども

TRPGによるソーシャルスキルの獲得を読んで

街に行ったとき、単に「話を聞く」とかをすれば情報が集まると思っていたり、モンスターと遭遇したら何も考えずに「戦う」と選択してしまったり。
状況に対しての選択肢が、演じずに選べるコマンドレベルに限定されてしまっている。

「これ自体(=この遊び方)」が悪い、というわけではないですよね。それはそういう遊び方というだけで、そこに善悪があるわけではない。悪いって言っちゃったら「CRPGの遊び方は悪い」という話になっちゃう。
(もしかしたら「CRPGの遊び方は悪い」ということもあるかもしれませんが、現時点でそれは社会的な合意も科学的なエビデンスも取れてない、と思うので除外します。でも別にデータ的なものは調べてません)
で、下記の部分は、「この遊び方」を肯定している"ようにも見える"んですね。

TRPGによるソーシャルスキルの獲得を読んで

状況に応じて判断し、なるべく自然な、そしてベストと思える行動を選び、そうしたシーンの積み重ねで物語を作って行く、その課程にはサイコロを振るような要素は少ないほどTRPGは楽しいのだと思うけれど、それをとくとくと説明しても、きっと楽しくない。

ベストな行動=最適解があるのかないのか、という点で、ことCRPG的コマンド選択方式には、最適解が"ある"ことになっちゃわないでしょうか。ま、上記の引用部分は、コマンド最適なことではなく、「PCの行動として」最適な行動、ってことでしょうから、若干異なりますけども。ただまあ、私の個人的な立場として、「PLとPCは不可分であり、PLの最適がPCの最適であるべき」という主張なので、PCとしてどうかとかは勘案しません。
試験で言えば、選択形式の設問には、必ず最適解がありますよね。逆に筆記形式の設問には、実は最適解、もっといえば"最適な記述"は存在しない。「採点の基準を満たす用語が適切に使われている」ことが最適解になるわけですが、記述方法はわりといくらでもあったりするわけです。


「わたしはいま酒場で、依頼主の裏を取るために情報収集がしたい。そのために、酒場にいる人間に酒を振る舞います」みたいな5W1Hに則った記述もあれば「依頼主が怪しくないか確認したいんだけど、酒場とかあるよね? あるいは同業者がいそうな場所とか。そこで情報収集できない? ただでとは言わんから。酒代ぐらいは出すよ」という砕けた記述も可能です。目的も行動も同じですが、記述だけは違う。記述の違いはつまり、「書きやすさ(=馴染んでいる書き方)の違い」でしかない。
いわゆる最適解、「行動の内容」については差はないけど、記述の差によって優劣をつけられてしまいかねないのがTRPGだ、と私は思ってます。そこには会話、意思疎通が最低でもGMとPLの間に発生し、発信した言葉が相手に通じる必要がある、「相手が理解できる記述をする必要」があるからです。
だったら最適解が明確なコマンド式でも別にいんじゃねえの、それで誰が困るわけでもないなら。ってところです。システムの意味とか目的ってのはそういうことです。「事物の記述方法を定量化し定常化させる」ってことです。選択形式のほうが筆記形式よりも意思疎通コストの低減が図れて、"それで誰も困らないなら"それでいいじゃないと。
CRPGがコマンド選択式なのはそういうことですよね。「システム開発者」も「システム利用者」も「それで困らない」から選択されているにすぎない。間違っても「コマンド選択式にするためにコマンド選択式にしてみた」わけじゃあない。


コマンド選択式がなんとなーく悪者扱いされるのは、「TRPGは自由な遊びだから」じゃないのかなと。じゃあ自由ってなんなのよと。少なくとも「あえて相互の意思疎通を困難にすること」が自由なわけじゃないっていうかそれって会話する気ないよねってことだと思うわけです。
「自由」には必然的にコストが伴うわけで。そこを無視しても、困る人が出るだけになってしまう。
例えばJISとかあるじゃないですか。

日本工業規格 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%A5%E6%A5%AD%E8%A6%8F%E6%A0%BC

ここで言う規格ってのは、まあルールですよね。「みんな勝手なことしてたらすり合わせコストばっかりかかって効率悪いから、みんなで基準決めてもっと効率よくしていこうや」ってことです。まあ大量生産するしないはともかく、生産効率というのが重視される製造業だからこそだ、って見方もできるとは思います。
でも、じゃあTRPGのルールはなんのためにあるんでしょう。「みんな勝手なこと(口プロレスとか)しようとしても判定(=裁定)できないから、(みんなで)基準決めてもっとわかりやすく判定とかできるようにしていこうぜ」ってことじゃないんでしょうか。
これは「生産物」が「ゲーム上での行動」になっただけで、その効率を上げようとする仕組み"でもある"ルール(=規格)の目的は、JISとそう変わりません。こうした非人間的な枠組みに生理的な嫌悪を覚える人もいるかもしれませんが、感情論のみで話し合うのは「ゲーム」ではないしましてや「コミュニケーション」でもないので、「気分の問題」の話はここでは取り上げません。
そうしたルールが「キャラクターの行動を表現する領域」にどこまで踏み込んでくるか、っていう境界線の話で、その線を「GMとPLが合意できる形」で引ければ、それでいいんじゃないでしょうか。好悪の話は、まあ個人の流儀でしてもらえばいいとも思いますけども。
現状の多くのシステムが、あまりそういうことができるようにはなっていないんじゃないだろうか(そのように見えるんじゃないか)、ってご意見であれば大賛成です。やれるかもしれないけどやりづらそうってのは感じます。


で、ようやくここでそもそもの本題に戻りますけども、「TRPGによるソーシャルスキルの獲得」についてです。

楽しく体験!ソーシャルスキル
http://www.e-kokoro.ne.jp/ss/sidou/outline1.html

障害のある幼児児童生徒の自立や社会参加に向けた主体的な取組を支援するという視点に立ち、幼児児童生徒一人一人の教育的ニーズを把握し、その持てる力を高め、生活や学習上の困難を改善又は克服するため、適切な指導及び必要な支援を行うもの

「そういう使い方もできるよね、TRPGは手段であって目的じゃないんだから」ってのが、とりあえずわたしの感想です。専門的な(おそらくは心理学的な)領域で、どういう風に扱えばどういう効用があるか、という話は、専門家ではないわたしがするべきことではないと思うので、「TRPGはこういうトレーニングにこういう効果がある」ということは書きません。目的と手段の混同は危険ですから。
TRPGが他の手段に比べてソーシャルスキルの獲得に優れた効果を持っている」かどうかなんて、それこそ専門家じゃないとわかりませんしね。そんな突っ込んだ領域は手に余りすぎます。なのでそういう話はしませんし、するべきではないと思います。専門家に訴求するのは(TRPGの普及・一定の認知度の獲得ということを考えた時)大事だと思いますけど。
(ただ、「ソーシャルスキルの獲得のためのTRPG」は、いまわれわれが言うTRPGではないだろうとは思いますけどね。「遊ぶ目的」のTRPGと「学習目的」のTRPGが同じなんていう発想は、わたしの狭量な脳味噌からは出てきません。TRPGという枠組みに則っていたとしても、別物だろうし、そうあるべきだと思います)


その上で素人の意見ですけども、「学級崩壊は学力の低下じゃなくて教師の権力の縮小が招いた必然的な事象じゃないの」ってのがあるんで、「学級崩壊という結果」だけに着目した「対処療法」には、あんまり感心しませんし興味もありません。「学級崩壊は起こるものだ」という認識に立つのは大事だと思うんですけども、「学級崩壊を起こさないようにする」ことと「学級崩壊が起こってから対応する」は別ですよね、ってだけなんですけども。
「裁定権がないGMが運営するセッションは、学級崩壊と似たようなことが起こりやすくなる」という認識なんです。学級崩壊をモラルハザードとして認識した場合、「口プロレス至上主義になり、誰もが自分の基準で行動の結果を決定し、誰にも他人の基準に口を挟むことはできない状況」になったTRPGと似たなにかになるんじゃないでしょうか。
(で、学級崩壊について、その業界の人に聞いてみたんですが、「別に教師の権限だけの問題じゃなくて、生徒のモラルの問題もあるから、一概にはなんとも。そういう原因もあるだろうけど、基本的には複合原因じゃないかな」とのことでした。私がそう理解したというだけなので、細かいところは違うかもとは補足しておきます)


そして話題を強引にTRPGに戻しますが、「TRPGはなにをするものなのか」「TRPGでなにをしようとしているのか」ということは、極端な話、一般ユーザは意識しなくてもいいと思います。
でも、「TRPGに分類されるあるシステムで遊んでいたら、こういう効果があります」ということを謳う場合、それに学術的エビデンスを付加できない限り、民間療法と同じレベルの"科学的な"信頼度にしかならないし、「そうすることことでどういう効果があるのか」を被験者、被術者が意識していなければならない、とも思います。
(「遊ぶため」ならTRPGによる影響を考慮しなくていいのか、というのは難しいところなんですが、少なくとも悪影響について明確なエビデンスがあるわけでもないので、結果的に副次的に発生する悪影響については、「遊ぶため」が果たされているのであれば、特に考慮しなくてもいいんじゃないかなと思ってます。将来的にはこの辺、悪影響が明確化されれば変わる可能性はあると思いますけどね)


教育ってたぶん、そういうもんですよね。命には関わらないかもしれないけど、少なくとも一生には関わる。義務教育は社会生活のための知識を教えてくれるけど、子供の躾はご家庭でどうぞ、ってのは、私人としての価値判断の基準までは義務教育に持ち込まない(=教育に名を借りた洗脳は行わない)というモラルがあるからじゃないでしょうか。それが本当にモラルなのかどうかは置いておいて。
(ま、厳密に公人と私人を区分けできるかといえばできませんが、それは社会を維持することによって私人が享受可能なメリットのほうが、社会を維持するために私人に与えるデメリットよりも大きいと判断される限りは許容される類のものでしょう。判断基準によっては社会維持のデメリットのほうが大きく感じる人もいるんでしょう。たぶん)
集団生活を行う上で必要なルールは教えても、ルールを判断する基準を教えるわけじゃない。「赤信号を渡るな」と教えるのが学校で、「実は赤信号は渡ってもいい」と"教える可能性"があるのは、家庭であり日常生活です。あるいは「青信号でも危険だ」と"教える可能性"があるのも家庭であり日常生活です。
ルールは厳格に、運用は柔軟に。どっかで聞いたような話です。ルールを教えるのは義務教育で、運用を教えるのはご家庭の役割です。


というわけで、さらに強引に結論につなげます。
TRPGは○○をするゲームである」という主題設定において、やはりTRPGは自由です。私はこの点を否定する気は毛頭ありません。
ただし、何度も何度でも書きますが、それが教育に使われたりするのであれば、そこには科学的なエビデンスが必要だろうと思います。それは、実態はともかく科学的素養を身に着ける教育を受けてきた身として、「科学的根拠がないのに科学的根拠があると謳う」のは問題だろうと思うし、「科学的根拠がないことを有用性の可能性のみで教育に取り入れる」のは危険だろうと思うからです。
検証実験とは別の話ですよ。検証実験もせずに導入しちゃあかんし、検証実験するならその旨を開示しましょうね、というだけのことです。