自由が持つブーメラン的側面

日本語が下手だなあ、とエントリタイトル書いた瞬間に思っちゃう場合はあんまり筆がのりません。
少し前に「システムのデメリットをもっと明らかにせよ」ということを書いたんですが、「そもそもTRPGが自由であることのデメリットはどの程度明らかにされているんだろうか?」という点で疑問を持ったのです。
私が持ってるルールブックでは、あんまり見たことがないような気はするんですが、そもそもあんまりルールブックは読み込まないタチなので、もしかしたらどっかに書いてあったのかもしれません。どなたか「自由の弊害」について書かれているルールブックをご存知でしたら教えてください。


もっとも、こんなものはわざわざルールブックが喧伝しなくても、「適度に読み替えができる=想像することができる」人であれば、すぐに気づくことなのかもしれません。
「自由な選択をすることができる」=「自由に選択をしなければならない」という読み替えは、そう難しいことではありませんが、実感を伴って想像することができるか否かは、微妙なところがあるように思います。少なくとも私は仕事であれこれやるようになってから「自由なんてものほどめんどくさいもんはない」ということを思い知らされてます。仕事柄もあるのかもしれませんが。
(さらに言えば、仕事で言う「自由にやっていい」というのは、「発言者にとっていいように」という留保が必ずつくので、別に全然自由じゃない、というのもあります。でもそれって、TRPGでも同じことだと思ったりします)


いまさらな定義をしてみましょう。「TRPGで許される自由は、そもそもコミュニケーションを前提としたものである」というものです。ソロプレイ(自分GM自分PL)を除いて、通常、GMとPLは別人格なので、そこには対話が発生し、おのずからコミュニケーションも発生します。これはTRPGに限らず、CRPGの対戦ゲーム、果てはボードゲームまで共通します。
で……どんなゲームであれ、対戦相手、対話相手、コミュニケーション相手を無視した行動は取ることができません。取ったってかまいやしませんがゲームにはならない可能性が高いし喧嘩になる可能性だって高くなるし、少なくとも遊んではいられなくなる可能性が高まります。それは大人気ないだけだ、という意見もあるかもしれませんが、どっちにしろ遊んでられなくなるということに変わりはないと思うので。
「何者にも束縛されることがない」という意味で自由を定義してしまうと、他人が介在するゲームはなにひとつ自由にはできなくなります。そんな自由が許されるのは自律行動ができない赤ん坊ぐらいですかね。


というようなところまで書いていまいちまとまらないなあ、と思ってうだうだしてるところで、id:acceleratorさんのこのエントリが出てました。

自由という概念のやっかいさ - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む
http://d.hatena.ne.jp/accelerator/20090217/p1

なので以下は基本的には追記です。


自由という単語は、おおむね文脈において理解され、意味付けされる必要がある、ということなのかもしれません。
「ゲームにおける自由」というのは、「刑務所における自由」と同質ななにかとして認識されているんじゃないだろうか、と思えてきます。言葉にしてしまえば「ルール(=束縛)からの解放」ですが、解放の先になにがあるかは基本的には問題にはされない、ということも含めて。
これは手段の目的化に過ぎませんが、それが問題にされることも、また問題になることもない、ということなのかもしれません。目的の正当性は、常に手段を正当化するわけですから、目的が正しい、と疑う余地がないものであれば、それが本来は手段にすぎないものであったとしても、モチベーションの駆動力となりえるのではないか、ということです。
「状況の打破」が目的となった場合、「状況を打破するための手段」が往々にして目的化してしまうし、それでもモチベーションは阻害されない、ということですね。


それが錯誤だ、という指摘は、あまり意味がないのではないかと思います。人は常に正しいわけでも理性的なわけでもなく、大半は非合理で非理性的なものです。合理性や理性は見せかけにすぎないし、クオリアでもない、のではないでしょうか。
テンションあがってる時に「もちつけ」とか言われて落ち着けるようなら、実際にはテンションがあがってるわけじゃないんじゃないかなという気もしますし。それは見せかけのテンション、「テンションが高くないといけないから高い」という義務感によるテンションじゃないかなと。
そしてセッションを楽しむ、没頭感を重視する、という時に、理性だのなんだのを求めるのはナンセンスですらあると思います。ルールは楽しむためにあり、セッションは楽しんでやるものなら、楽しみのためにルールを曲解することもまた正当化されるでしょう。
目的は手段を正当化しますが、それでも、人が錯誤に惑わされやすいことを肯定した上でも、手段は目的を正当化しません。ルールを曲解することが、セッションを楽しむことにはならないからです。因果は逆転しません。
そう考えると、目的の手段化が時に問題にならないのは、目的と手段が一致しているから、なのかもしれないなあと思ったんですが、どうなんでしょうかね。


そうなると、私が考えるTRPGにおける自由というのは、究極的には「楽しみ方を定義する自由」である、ということになります。つまり、世に広く喧伝されている「目標設定の自由」です。それが善であり正義であるのなら、それを阻害するものは排除する必要があります。ルールが行動の合理性を一定以上担保するために駆動し、そのためには抽象化によって枝葉末節を切除するように。目標設定が曖昧だったりそもそも合意が取れていなければ、阻害要因を特定できず、排除もできません。
これは、自由という言葉を抜きにして、「権利の行使には義務が付随する」と表現してもなんの問題もないような気がします。行使する権利の選択における自由、はあるかもしれませんが、それが権利と義務の関係を度外視するものではない、ということではないでしょうか。
そうなると、やはり自由なんてどーでもいー、という結論になりそう。自由は目的ではなく手段ですね。自由になるために自由になりたい人は、まあご自由にどうぞ、といったところです。