つづく・しなりおのつくりかた

なんだかしつこいぞ自分と自覚しつつ。

[TRPG] あはは、ダメだね〜(^^;: Dragonoid Factory
http://dragonoid.txt-nifty.com/df/2009/06/trpg-b29c.html

とことん理詰めでストーリーを作成するって方向も捨てきれずにおります。

これはこれでいんじゃないですか、という起点から、私がシナリオを作る時の軸、考え方について整理したものを書いて見ます。


私が考える「理」というのは、「個々人が理解できる範囲」という意味での理、理解範囲としての理です。つまり、理解してもらえないものは、どんだけ整合性が取れていても理にはならない、理詰めとは呼ばない、そういうことになります。
「理解」というのは、TRPGにおける楽しみの重要なファクターの一つだ、と私は考えています。それを「システム」にあてるか「シナリオ」にあてるか「ロールプレイ」にあてるかは、それこそ個々人の楽しみですが、「シナリオ」については、基本的には「システム」とは無関係な枠組みで考えることができるものです。
「シナリオを理解する」というのはどういうことかというと、「セッション後に(とりあえず)疑問がないシナリオを遊ぶ」と言い換えることができると思います。そのために必要なものは、「理解する範囲が狭くていい」つまり「箱庭的シナリオ」なわけです。
なぜ箱庭的シナリオが「理解する範囲が狭い」のかというと、単純に「誰でも一目で全景が見れる」からです。つまり、「誰が見ても一目で全体が見通せるサイズ」を意識して作る必要があるわけです。そして、その上で、「誰にでも全体が見えるように要素を提示する」必要があります。
いくら箱庭のように作ったとしても、一辺が2メートルもあるような箱庭は、けっこう離れてみないと全景を見ることはできません。言い換えれば、どんな箱庭であれ全景を見ようとしたら、メタ的な視点を持たなければならなくなってしまう、ということでもありますが。
離れて見るのが好きな人もいれば、近くで見るのが好きな人もいるでしょう。しかしそこで、「セッションの結果」という形での「完成度(=満足度)の高い箱庭」を見ようと嗜好するなら、それはもうかぶりつきで理解できる程度のサイズの箱庭を用意する必要があります。たぶん。好みが加味されるので厳密にはそうともいえませんが。
なぜかぶりつきで理解できる程度のサイズである必要があるかといえば、セッション中にはそんなに離れた視点で見る余裕を持つことができる人ばかりじゃないし、それこそ体調がいまいちだと離れて見る余裕を持てないことになるからです。
要は、一番全景を理解しづらい見方をする人にフォーカスをあてれば、それ以外の人もわかる、という手法です。
シナリオというのは、「かぶりつきで見てもわかる箱庭を作る」工程だ、と言い換えることもできます。あくまでも普遍的には。特定のPLをターゲットにしたシナリオの場合はこの限りではありません。キャンペーンシナリオとかも若干異なりますしね。


で、ここからはちょっとマスタリングに逸れますが。
GMというのは、若干メタな視点で、つまり「常に箱庭の全景を眺められる視点」でセッションを進行する必要があります。PLはPCを「箱庭のどこに置くかを考える」わけですから、PCを置こうとしている場所、つまり「箱庭がいまどうなっているか」を把握する必要があるわけです。
で、アドリブというのは、「PLがPCを箱庭からはみ出させようとした時」に発生するわけです。この場合、PLの動機は問いません。故意にかもしれないし、偶然にかもしれないけれど、それが故意なのか偶然なのかは、どっちにしろPLには判断できない事柄だからです。PLというのは、箱庭を見ていたとしても、箱庭の全景が見えているかどうかは判断できない、ということでもあります。PLの視点では、箱庭の一部はまだ隠されているかもしれない、という判断が往々にして発生するからです。
不可避的に発生する「箱庭からの逸脱」にどう対処するか、は大きく分けて二種類あります。「箱庭に戻す」か「箱庭を広げる」かです。
多くの場面に置いて採用されるのは、「箱庭に戻す」手法です。これは、その場で即興的に箱庭を広げるには、ある程度の技術や慣れを要求するからです。箱庭を自由自在に弄れる自信がなければ、あくまでも箱庭の範囲内で進行するしかありません。つまり、箱庭に戻ってもらうしかないわけです。
また、「箱庭を広げる」には、元となった箱庭が、「箱庭の外」を想像させる作りになっているかどうかも関わってきます。箱庭の中の作りがこうなっているんだから、その外はこうなっているんじゃないか、と「PLにも想像させる」作りができていないと、PLは箱庭の外には(そもそも)出てくれません。
前言と統合すると、PLはそこが箱庭の外かどうかわからないのにPCを箱庭の外に出そうとするのは、箱庭にそれだけの広がりを感じられたから、です。これ自体は(箱庭製作者=シナリオ製作者としては)ありがたいことです。でも、それに答えられるかどうかはGM次第です。できるだけ答えてあげたいという心意気は大事ですが、そこで見栄を張ってもろくなことにはならないので、畳めない風呂敷はあまり広げないようにしたほうがいいでしょう。私はしょっちゅう広げたまま放り出しますが。


シナリオ作成の理詰めの話に戻ります。
理詰めの利点は、第一にアドリブが効きやすいというのがあると考えています。つまり、「1+1=2」というような、演算によって不測の事態にも備えられるということです。想定していたのは「1+1=2」という展開だったかもしれないけれど、PLがそこに2という数字を持ち込んできても、「1+2=3」とできるようにする、という意味です。
そして、そうやって整合性をとるというのは、裏返せば予想以上のアドリブによって整合性が破綻する危険も当然ながら抱え込むことになります*1。整合性に依拠してマスタリングしていたのに、アドリブによって整合性が破綻して寄り辺がなくなってしまった、と慌てることになるかもしれません。
吟遊GMが発生する理路というのは、こういうものだろう、と私は考えています。マスタリングの上手い下手の問題ではなく、整合性が破綻した状況に対処できないから、結果的に吟遊にならざるをえないんだと。「人の話を聞かない」のではなく、「人の話を聞けない」んです。たぶん。そういう人はまあ、その程度の能力しかないんだと生暖かく見守るしかないんじゃないでしょうか。私も吟遊の気があるので、まあ生暖かく見てくださいとしか言えません。
ということは、です。シナリオというのは、作成段階で「完璧な整合性」を持ってはいけない、ということになります。もしそれを持ってしまったら、アドリブがひとつ発生しただけで整合性が破綻してしまうからです。「整合性が破綻してしまう恐怖」は、おそらく不慣れなGMにはけっこうなプレッシャーになるんじゃないでしょうか。昔の私はその辺、けっこう嫌でした。
しかしそこで、「ある程度のアドリブを許容するために細部を曖昧にした記述」をすると、不親切と思われたりするわけです。まあどっちの言い分もわかるんですが、そんなもんどうにもならんだろう、というのが私の起点です。つまり、完璧な記述をするつもりは最初からない、というのが最近のスタンスです。
ここに重要な落とし穴があるわけですが、シナリオ上にPLの提案を受け入れる余地があるかどうかと、GMが実際にマスタリングする上でアドリブができるか、は関係しない、ってことです。シナリオはアドリブ可能なように作っていても、GMにアドリブする能力がなければ絵に描いた餅ですし、シナリオにアドリブの余地がないように書いてあったとしても、GMによってはうまいことアドリブできたりするわけですから。
ということは、「アドリブ能力には自信がないGM」に寄せたシナリオ記述をするほうが、トータルとしては親切な設計、ということになります。アドリブできる人は、シナリオがどうなってたってできるわけですから、アドリブできない人に、アドリブが基本的になくてもなんとかなるよーにするのがいいシナリオだろう、ということです。これを忠実にやると記述増えすぎてボリューム増えすぎて不親切設計になったりするんですけどね。
ここでいうよしあしの基準は最大公約数であって、万人に受け入れられる基準ではないのは、まあ当たり前の話としておきます。


さて、以上が私の「シナリオを作る時の軸」です。実際に書くときはけっこうぶれたりしますが、最近はそもそもあんまり「シナリオを書く」ということをしてないので、そろそろキャンペーンシナリオとかも書いてみようかと考えている一環で整理してみました。
具体的なシナリオ作成手法、というようなものが読みたい人がいれば、別途エントリを立てます。その場合はリクエストしてください。そんなに難しいことはしてません。

*1:あえて脚注しますが、フルアドリブシナリオ以外ではこうした危険性は必ずあります