ネタ:続・「わかる」とはどういうことか?

ちゃんと伝わらないなら、黙ってるしかないの? 〜『論理哲学論考ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン著:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090702/199158/?P=4

絵画は、花や山や人物を描く。しかし、それらについて説明したいのではない。印象派の画家モネが言うように、「見えないものを表現するために、見えるものを描く」のである。

見えないものを伝えることはできるのか、というのは、わりと私がマスタリングする上での(自主的な)目標でもあります。
基本的にオンラインセッションをやっているので、文字だけがGMである私とPLをつなぐものなわけですが、ここで、伝わっているものがあるのか、ないのか、伝わっているとしたらなにが伝わっていて、伝わっていないとしたらなにが伝わっていないのか、そういうことを意識してセッションをし、ログを編集し、公開します。
実行・確認のサイクルを延々と繰り返していまもやっている、というだけのことではありますが、「何かが伝わった」と思えたセッションの時は、いわゆる反省会、セッション後のぐだぐだで語りたいことは、ほとんど出てきません。
確実に、確信を持って断言できるほど確実に、私の感じたものがPLと共有できた、なんてことはありえないのに、です。


「痛い」ということを伝えるにはどうすればいいのか、ということです。「転んでけがをしたら痛いと言う」ことはわかっているから、転んだ時の衝撃や膝をすりむいた感覚のことを「痛い」という、ということは共有できます。しかし自分が感じた「痛い」と相手の感じる「痛い」が同じである保証はないわけです。
「痛い」のクオリアとはなんなのか、ということです。痛覚を刺激されるということが、すなわち共有される「痛いという感覚」ではない、ということです。

クオリア - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A2

人が痛みを感じるとき、脳のニューロンネットワークを走る電気信号自体は、「痛みの感触そのもの」ではない。脳が特定の状態になると痛みを感じるという対応関係こそあるものの、両者は別のものである。

そして、もっと身も蓋もないことを言えば……私は結局のところ、「それ」が伝わろうと伝わるまいと、どうでもいいと考えている部分もあるわけです。
どうせ伝わらないから、というわけではなく、伝わるかどうかは私にどうこうできることではないし、伝わったかどうかも私にどうこうできることではない以上、私にできることは伝えようとすることだけだからです。

理不尽な敗北にまみれ、しかしそれでも生きてゆこう:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090716/200234/?P=3

世界の圧倒的なデタラメぶりに翻弄されること。それは人間にとって普遍的な状況だ。
それに直面して、自分の無力を了解し、なお、できるかぎりの抵抗をする。

「わかるということの素晴らしさ」を伝えたい、というのは、なんというかもう、私にとっては心底大事なこと、になっているわけです。どうしてとか誰得とかそういう疑問の入る余地もなく、そうすることが当たり前のこと、なんです。
奇妙な感覚ですが、こういう感覚もまた、伝わらないんだろうなあ。