物語の前提、そして主人公とは誰のことか

物語創作の分担 - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む
http://d.hatena.ne.jp/accelerator/20090916/p1

これまでの議論で注目されているのは、単純な時系列の事実に感情移入するための段取りです。演劇でいうところの演出的な仕事でしょうか。これが単純な事実の羅列を物語と言えるものにするというのは確かに重要かもしれません。

目から鱗というか、確かにそうだなあ、というか。
上記にあるように、「単純な事実の羅列を物語と言えるものにする」という視点の前提は、「物語自体の完成度(小説的な意味で)は、TRPGでは要求できない」というものがあるんだろうな、と自己分析して思ったわけです。
で、それはなにに依存しているのか、というと、参加者が複数存在し、それぞれに最終決定権がなく、最終決定者がいないので整合性は担保しづらく、また即興で構築するために前後関係の検証が甘くならざるをえないため、結果的に事実の羅列にしかならない、という認識があるわけです。
ミステリ小説で言うところの伏線が、ミスリーディングとしてではなく忘却の作用として回収されないという事態は(ミスリーディングは、ミスリーディングとして回収されてるとも言えますが)、おそらく物語の整合性、一貫性においては、クオリティという観点からすれば低いものにならざるをえない。
クオリティが低いものを、誤解を恐れずに言えばそれなりのものに仕立てる、偽装するにはどうすればいいのか、という部分が、自分にとっては大事、と言い換えることもできるのかもしれません。


引用の引用になってしまうのでちょっとアレですが。

新庄カズマの物語工学論ではもう少し我々の実感にあった物語の定義が書かれています。

4.5
『物語』の必要十分条件とは、おそらく、主人公の存在、主人公の動機の(終盤での)充足、そしてそこに至る過程での「予期(期待)はできるが正確には予測(予想)できない」ような錯綜を起こすこと、の三つということになる。
新庄カズマ著 物語工学論 179ページ

この三つもある意味、出来事に感情移入するための段取りということができるでしょう。

必要十分条件については疑義を差し挟むことはしませんが、上記の「主人公」というのは誰のことか、という点において、TRPGでは通常、PC、という回答になるのだと思います。ところが、私のプレイスタイル、「PL=PC」からすると、PL、という回答になってしまいます。
これは、自分的にはどういう違いとなるのか、という点で、興味深かったです。


いままでは漠然としか認識していなかったんですが、私は「PL=PC」というプレイスタイルであると言いながら、物語の主人公としてはPCを想定していたようです。
そうなると、ここに奇妙なねじれが発生してしまいます。PLは、あくまでもPCを通してしか自分のやりたいことを表現できないし、実現できない、ということになってしまう。PLとPCは等価であるはずなのに、PLが従属することになってしまうということですね。
ぶっちゃけというのも、PCを(とりあえず)無視して、GMとPLが直接物語の内容について対話する行為です。ということは、ぶっちゃけを重視するということは、図式としてはPCを軽視することにもなる。
PCを軽視しているのに、PCに物語の決定権を持たせていた。これはうまく回らないんじゃないだろうか、という点で、確かにPCがうまく動いた時にしかうまくいったと思えなかったことを考えると、うまく回っていなかったようです。
これは極論すれば私の意識の問題にすぎませんが、なるほどPL満足度を評価軸に据えれば、自分的には事後的な納得感が高まるのか、という点において新鮮な発見でした。


要約すると、「PL重視でプレイするなら、PL満足度を重視したほうがいい」し、「PCに依存すると物語の整合性が低くなるので、PLに重点を置いたほうがいい」の複合が、現時点での私の目標、って感じになります。
そして、物語重視で遊ぼうとする私のスタイルは、事前に他参加者に周知して合意を取ったほうがいい、ってことでしょう。おそらくこれは、一般的なプレイスタイルではないし、一般的なプレイスタイルにはない適性を要求することになると思うので。
なんとなくすっきり。セッションしたくなってきた。


追記
エントリあげてもないのに追記もなにもないんですが、↑の文章を書いてからコメント欄を拝見したので、その部分はあえてわけて追記とさせていただきます。
ええ、↑の文章と統合するのが面倒だっただけです。

物語創作の分担 - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む
http://d.hatena.ne.jp/accelerator/20090916/p1#c1253099565

上の記事で主人公と書かれているところは”感情移入の依代となるキャラクター”という表現のほうがよいと思います。

この場合、GMにとっての主人公は誰だろう? という観点が、本文でもすっかり抜け落ちてました。つまり、「GMにとっての物語における主人公」という意味ですが。
PLにとっては自分のPC"でもいい"と思いますが、GMにとっては……私の主観的には、参加者全員か、というところです。つまり、「物語を作ろうとする人」すべて。なので、物語中の登場人物は、必ずしも必要とはされない、という一見すると矛盾した話になります。私は必ずしも自分の書いたシナリオに執着しませんが(執着するならアドリブセッションなんかしません)、物語という構造には執着があります。
そのために、私は、物語に関わらない(関わろうとしない)PLを、参加者とみなせない心理が働くようです。これはこれで問題です。(能動的・受動的な理由問わず)関われないPL、という存在を棚に上げちゃっているから。
この辺は単純に自分の問題なので、改善あるのみですが、改善の方向性は、もうちょっと慎重に見定めていきたいと思います。つまり……意欲のないPLを、それでも認めるかという問題に関わってきますので。この場合の意欲のないPLというのも、相対的なものでしかないので、あまり意味はないのですが。観測問題になっちゃいますかね。

あれは物語はどこかで終わるものであるというのが前提で、物語が終わるのは主人公的なキャラクターの動機が満たされたとき、あるいは満たされないことがわかったとき、もしくは物語の最初の状態に戻ったときであろうという推論があり、ああいう結論になっています。

物語が終わる、というところで、ストーリーに着目するかキャラクターに着目するかで変わってくる部分はあると思うんですが、上記の前提はキャラクターに着目する場合であり、PL/PCという視点からはまったくもってその通りだろう、と思います。
でもGMにおいては、果たしてどの状態をもって終わりというのか、と考えた場合、ストーリーの終わりである、とするなら、キャラクターの動機云々ではなく、ストーリーによって表現しようとしたものが表現された時に終わる、ということにならないか。その場合、何をもってして「表現された」とするのか、という話に脱線してくるんじゃないか。
あくまでも「GMはPLを楽しませるものである」という前提に立った場合、キャラクターに着目する手法でも不都合はありません。が、GMが(PLとは無関係に)楽しんではいけないのか、という別の方向の問題につながってくる気はします。


役割としてのGM/PLがあり、それぞれの立場で楽しみを追及した場合、あくまでもキャラクターという観点にPLが立ったなら、GMとは楽しみに領域において同じであるということはなく、「共通する楽しさ」の部分と「独立した楽しさ」の部分がある、ベン図で言う共通部分はあるけど、それぞれの楽しみの領域があるのではないか、ということです。

ベン図 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%B3%E5%9B%B3

GM/PLは対立項ではありませんが、しかしそれぞれ独自の利害を持っている、と言い換えることもできるとは思います。それぞれの利害を認めるかどうか、という点では、認めないというのは不健全だし不公平に感じます。
もしかしたら、ですが、これはいま思いついただけですが、このGMとPLの楽しみの重複しない部分こそが"それぞれの"物語なんじゃないか、という気がします。そもそもGMとPLの嗜好する物語は違うんじゃないか、という意味も含めて。
それがために、物語を追及する時に、吟遊詩人だのなんだのいう問題が持ち上がってくるんじゃないか、ということです。GMは戦闘においてやられ役であることを(半ば必然的に)担わされており、それを活かすには物語に組み込む(回収する)しかなく、そうであるならGMは吟遊的に物語を楽しむしかないのではないか、というのは大概無茶な飛躍ですね、はい。

話題が逸れますが、「ちょうつよいNPCさま」は、GMとPLの楽しみを同じ水準に置こうとした時、無限のリソースを持つGMが必然的に生み出してしまうなにかではないのか、というのは、当たらずとも遠からずではないでしょうか。つまり、ここを分離できれば、「ちょうつよいNPCさま」問題は解決できそう。


追記部分が本文と同じぐらいの長さになってきたし、論点もとっちらかってきたので、とりあえずまとめに入りたいと思います。
「セッションにおける物語」とは、GMとPLという視点の差異によって別個のものとして表れるものであり、これを統合するためには、それぞれの視点における楽しみを中心に構築した時に、初めて「一つの物語」になりうるのではないか、というのがここでの結論です。
もちろん、「一つの物語」にこだわる理由はなにもないんですが、参加者が全員あっちこっち向いて自己満足でした! ってーのもなんだかななので、とりあえずこの方向性付けで、引き続き考えていきたいと思います。