セッションにおけるPCの変容(notPLの変容)

長らくお待たせしております。
連休はいろいろとやることがあったので着手できませんでした。
というわけで、引き続き物語系の話題を。
引き続きid:acceleratorさんのところに応答していきたいと思います。

語り手にとっての物語 - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む
http://d.hatena.ne.jp/accelerator/20090919/p1

新たな視点からの模索ということで評価いただいたようで、わりと昔っからそういうスタンス(のつもり)だったので、ああそういうもんかなあ、なんてのが最初の感想だったわけですがそんな余談は置いておいて。
まずはこのあたりの話題から。逐次的に書いていきますが、ここんとこどうなの? みたいなご意見があれば突っ込みいただければ別途応答させていただきます。全部書くとまたアレゲな長さになりそうですし。

TRPGの場合、なんらかのトラブルは個人のスキルやパーティの結束を浮き彫りにするということは皆さんよく把握されているかと思います

ここでいう「トラブル」が、いわゆる「シナリオ」だ、と私は考えています。「PL/PCが予期しない状況に放り込む」のが「セッション」であると。
これは、事前に心構えができたり、それこそなにが起こるのかわかっていて解決策を提示するだけであれば、セッションという「場」の意味が薄くなるからです。必要ない、とは言い切れませんが、がんばって時間調整してまで場を維持するのとは別の方向性のほうが合理的になってくるんじゃないかと。合理的だったらいいってわけでもないですが。
そしてこれは、別種の疑問を喚起することにもなります。GMとPLの情報格差は、上記の前提に乗っ取れば必然であり、それがためにGMは物語をハンドリングすることを強要される、と。
GMとPLの情報格差についてはいままで散々書いてきたので、細かい話はそちらを参照してください)
さらに、この前提で言えば、(事前、あるいは最中には)物語なんてものはない、ってことになります。あるのは「PL/PC」と「トラブル」だけであり、それが物語であるためには、落着点としての「結末」によって、逆算的に物語「だった」ということにする、という形でしか、物語は立ち現れない。
つまり、いままでの応答の中であった、「単純な事実の羅列を物語と言えるものにする」というのは、構造的に不可避である、という裏付けにもなっています。
裏を返せば、GMがどれほど「物語」をやりたくても、それは事後的にしか発生しない、セッション中にはその結果を「予期はできても予想はできない」ということです。
もちろん、「物語の成立」が目的であり、そのために参加者が行動する、という前提での話ですが、これはこれで、筋は通っているように感じます。

TRPGにおける情景描写の技術ってなんかありましたっけねw僕が思いだせるのは遠くから入ることぐらいです。

個人的には、いきなりPCの置かれている「場所」を説明します。「君は学校にいる」とか。そのあとで、こういう状況で、周りにはこういうものもあるけど、なにか必要なものがあれば言ってください、とPLに投げます。返ってこない時は特に弄りませんが。
この辺、実際のやり方の部分もあると思いますが、PLは戸惑うようです。おそらく抽象描写ではなく具体描写から入ってしまうので、逆に想像力に制限が加わってしまうんじゃないだろうかと思いますが、抽象的にやってもPLからの提起なんてものはそうそう出てこないので、別にいいやと思ってます。
経験則の話ですが(そしてエンゼルギアに偏った経験ですが)、「PLが望むNPCの登場人物」というのは、大概においてPCと絡むNPC、いわゆるギャルゲでいうところの攻略ターゲットである場合が多いということです。これはまあ、動機から考えるとわかりやすいというか、これしかないというか。PCにしてみりゃ、それが(シナリオにおける)手掛かり足掛かりなわけで。
なのでそれをやってりゃ(出してりゃ)いんじゃね? と思ってますが、公式シナリオで、明確にPC関連キャラのNPCがいるのに、出番がほとんどないとか見ると、これはNPCの出番は勝手に作れってことなのかなあ、投げっぱなしだけどと思うことがちらほらと。ええまあシステムについては明言しませんが。


さて、今回は以下の部分が主題と考えています。

どうにかしてドラマを生かしたまま、ストーリーもきちんとするというのが最高なわけで、ストーリーのためにドラマが折れるのもドラマのためにストーリーがおれるのも心残りな結果になるんだと僕は思います。

この辺が主張の差というか主義の差というかやりかたの差かなあと思うんですが、私は「PCの感情はPLが操作するものであり、どのように操作しても根本的には動機付けが可能」と考えています*1。そのために、ストーリーのためにドラマが折れる、キャラクターの感情がストーリーの都合のいいように曲げられる、ということが起こったとしても、ドラマを生かすことは可能だ、と考えてしまいます。*2
この辺はどうも私のPLスタイルが特殊なんじゃないかと最近感じていますが、PCの感情というのは、「PCが創造された時」に固定されるものではない、と思ってます。そして、セッションにおいては、シナリオとPCが組み合わさった時に、初めて表れる、と考えています。
どういうことかというと、PCの価値観は固定的なものではないし、状況によって左右されるものだからです。そして、どうしてそうではないのか、ということについての問いでもあります。
以前にもこんなエントリを書きました。

選択と思想 - TRPG履歴
http://d.hatena.ne.jp/standby/20090107/p1

選択というのは、常に状況によって要請されるものです。「血の繋がっている親戚の子」がやってくることがなければ、「血の繋がらない養子のほうが大事」なんてことを考えることすらなかったんじゃないでしょうか。
状況というのは、価値観とは関係なく訪れるものだ、というのがこのエントリの主眼。

どうも、PCの思考をトレースする、となった場合、PCならこう考えるはず、というのは、状況を無視して下された判断であることのほうが多いように感じています。「このキャラはこういうやつだからこうしなきゃダメなんだ」というような固定観念が多く、結果的にその思考に囚われて、シナリオに応じた状況判断が出てこず、手詰まり感を感じる……というやりとりが多いのではないかと。
つまり、私がここで改めて問いたいのは、PCはシナリオによって変容するのか、しないのかということです。そして、変容することをして「折れる」と表現することに妥当性はあるのか、ということもあります。
もしPCがシナリオによって変容しないのであれば、PL/PCにとって、シナリオの意味、価値とはなんなのか、と重ねて問いたいところです。もしPCが変容しないのであれば、セッションの結果、経験点を獲得し、PCを成長させることは、変容とどう違うんでしょうか。新たな能力を獲得してもPCが変わらない、なんてことが本当にあるとでも?
これらがメタ的な問いであることは承知の上ですし、無自覚であってもそんなもんかなとも思いますが、いい機会なので問いかけてみたいと思います。無自覚であることに自覚的になることは、まあこういうと身も蓋もありませんが、ちょっとした体験になりますので。ならない人は残念ながら一緒にプレイできない気はします。
もちろん、ロールプレイ派でない人とか、物語派でない人とか、このエントリの対象外の人は、そもそも主旨が違うんで、意味のない問いですが。


根本において、状況ではなく、人物に重きを置くプレイスタイルに対しての不信感が根強い、というのが私のスタンスです。「こいつはこういうキャラだから」という発言が、状況を進展させたことがあまりなかったからです。*3
もし、私のスタンスであるPL=PCが実践されている場合、PCが変わりたくないというのは、PLが変わりたくないというのと同値となり、そんな人と遊んでも……ちょっと微妙です。もちろん、みんながみんなそういうスタンスなわけではなく、というか大半の人は違うのかなあ、と思ってますから、そこんとこは私のこだわりでしかありませんが、気になるポイントであるのは変わりません。
自分の周囲だけ見ててもわからなくなるので、こういう場で公開しちゃうのが意味があると思ってます。


参考リンク
シナリオ・ストーリー・物語とは - きまぐれTRPGニュース - trpgnewsグループ
http://trpgnews.g.hatena.ne.jp/accelerator/20090913/p11

*1:ダブルクロスのリプレイ、ストライクシリーズの主人公とか端的だと思います

*2:読書記録だと、ストーリーについてはあんまり評価してませんけども

*3:ないこともないですが、それはメタレベルでのPL間の根回しに過ぎない、とは思ってます。それはPCとして進展させてるわけではないので