完璧な人間ではないことを理由に責めることはできない

副題は、「完璧な人間になろうとしないことを理由に責めることはできない」です。


別に言うまでもないことではあるんですけども。
ロールプレイ至上主義者であるところの私としては、ロールプレイをできるようになろうとしない人に対しては点が辛いわけですが(同様に、ゲームの数値的な部分に対してずぼらな私は、あれこれいろいろどうなんだ、という評価があることも承知しています)、さりとてそれを理由に非難することはできない、ということは頭ではわかっていても、なかなか態度に出ちゃってるなとは思うわけです。大人力が足りない。
その上で思うのは、「ロールプレイには別に興味ないんで」ってんなら、先にそれは教えて欲しいなあ、と思うと同時に、自分のロールプレイ至上主義者っぷりの伝え方がまずかったんだろうなあ、という反省もあり、結局はどっちもどっちやんなあ、ってことなわけですが。


ただ、完璧であるか否かに関わりなく、言行の不一致は、単純に困るなと。そうは思うわけです。しかし、人間、常に言行を一致させられるわけでもなく、つまりは言行を一致させられるのなんて「完璧な人間」ぐらいなんじゃねえの、とも思うわけで。
まあ、言行の不一致って、意外と指摘されないと気付かなかったりもするわけですが。指摘された時に謙虚に受け止める心の余裕は持ちたいな、と。反射的に反応するんじゃなく。でもそれは結局完璧な人間を目指してることになるし、そうしない人を責めることはやっぱりできないんじゃねえの、という論理のループにはまるわけで。
こんな極論の二択はあんまり意味ないし、窮屈だし、疲れるだけですけども。自説を顕示することはいいとしても(内容にもよりますが)、執着しちゃああかんな、というバランス感覚は大事にしたいところです。


能力、という点において。
「(現時点でか将来においてもかはともかく)それはできない」ということはあると思います。いままで野球に縁がなかった人が、いきなりプロ野球選手並のバッティングを要求されても、それはできない、というレベルの話として。練習してできるようになる人もいるかもしれんし、やっぱりできないままかもしれない。そういうものはあるよ、と。
そうした「できること/できないこと」がなにを決めるのか。もっといえば、人間性というのはそういうものだけで評価できるのか。短所があれば長所は全部なかったことになるのか。長所があれば短所は隠蔽されるのか。長所短所なんて個人の価値観での判断にすぎないものが絶対基準を持ちえるのか。それを基準になにを判断できるといえるのか。
清濁併せ呑む、じゃないですが、しかし人間というのはそういうものなんだろうから、よっぽど肌に合わない人以外は、まあそういう人だ、と評価すること自体は、当然のことなんじゃなかろうか。受容できる短所の人とだけ付き合うのか、というのは、楽だろうけど不健全だろうなあ、とも思うわけで。理想郷というのは停滞の同義語なのかもしれず。


ま、人間として受容するということと、言説あるいは能力を受容するということは、似ているようでまったく似ていないし、それを混同したところで答えらしきものすらありゃしませんが。
能力の要求者と被要求者という関係において、要求者が能力を満たしているか否か、非要求者が能力を満たしている否かか、という四つの組み合わせを考えると、それぞれの組み合わせの中でもまた別種のジレンマが発生しうるなあ、というところまで飛躍してやめた。手に余る。
寛容は大事だけど、寛容を求めるのもまた完璧な人間を求めるのと同じかしらん、という疑問がエントリの発端だったのでした。オチはない。


追記
切り口としては愚行権の話になるんだろうか、ということをぼんやりと考えた。

愚行権とは - はてなキーワード
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B6%F2%B9%D4%B8%A2

傍から見ると愚かなことをしているようにみえても、本人がそれで良くて、ほかの誰にも迷惑をかけていないのであれば、その愚かな行為を他人が止める権利はない、という意味がこめられている。

果たして(コミュニケーションゲームである)TRPGにおいて、「本人がそれで良くて、ほかの誰にも迷惑をかけていない」なんて状況がありうるのか。能力の不足によって、本当に迷惑がかからないといえるのか。
迷惑のレベルをどこに設定するか、能力ってなんの能力、という話もありますけども。他者の存在を規定できない人は、愚行権を行使することもできないのかもしれない。なんてことを派生的に思ったりした。
そして、他者の存在の既定の仕方は……さて、なにに基づいて行われるものなのやら。少なくとも、主観的ではない客観的な規定であってほしいとは思いますが。この場合の客観ってナニモノですかねえ。