幸福論

椎名林檎の曲じゃないですよ、とよくわからない伏線を張ってみる*1
しかも本当はメタ論とかマクロ論とかそのあたりをやろうかと思っていたのに唐突に思いついた単語に方向転換。つまり、深い意味はないです*2

幸福とはなんなのか、を前提として定義するなら、「自分は幸福であると感じている状態」となると思います。いや、ちょっと待て、そういうもんでもないだろ、という意見はこの際ずっぱり却下してしまう方向で。
さて、その上での幸福「論」です。

TRPGの、と言うか、セッションの、と言うかでまた話は変わってきますが、そこは曖昧にぼかすとして、ゲーム中においては、レイヤが2つあります。「PL」と「PC」です*3
「PL」の幸福が必ずしも「PC」の幸福ではない、というようなことはよくあると思います。「かっこいい死に方」なんて、どういう理由や動機をつけたところで「PLの幸福」でしかないでしょう。どっかで書いたような書いてないようなですが、「死を賛美するのは生者だけ」です。
この2つのレイヤは乖離していますが、乖離していなければならないものでもあります。感情移入をゲームの軸に据える人にしてみれば邪道だと思うので、「けっ、この邪教徒め」と思ってもらうとして、私はPLとPCは明確に分離していることが必要だと思ってます。
理想と現実のところでも書きましたけれど、「これはゲームです」という大前提を持っているからです。PLとPCが分離しすぎると理想を通り越して逃避になりますけども、でもまあ、ぶっちゃけゲームで遊ぶのなんて逃避みたいなもんじゃないとも思うので*4、それはそれでいいじゃない、と思ってます*5

なので、PLがやりたいこをまずやるべきであって、PCの行動はそれに付随してくるべきだし、常にそうなっている、と思っています。マンチキン然り困ったちゃん然り、それらは、「それがやりたいPL」が存在しているから存在している、と。
なので、TRPGにおける幸福とは、PCではなく、PLの幸福を大前提とし、PCはあくまでも手足、もっと過激な言い方をすれば「道具」である、と割り切ることが大事だと思っています。

*1:伏線ではない

*2:相変わらず

*3:他にもあるかもしれないけれど割愛

*4:乱暴ですが

*5:よくないのは、逃避していることに対して無自覚であること、かな