(8)

 それはどうしてもできなかった。
「俺は、俺の大事なもののために戦ってる。それは事実だ。それに優先順位をつけようと思っているわけでもない。結果論として、残されたものの優先順位が高かったことになる。それだけだ」
 それでも、と彼女は嘆く。彼を責める言葉は、しかし彼を責めているわけでもなく、彼ならどうにかできたんじゃないかという信頼、あるいは希望、単なる押し付けのせいで生み出されている。
 わかっている。わかっていても止められない。そういうものも、たまさかある。
 だからこの世から不幸がなくなることはないのだ。
「あの子は。あの子は、いい子だったんです。あんな施設で暮らしていたのに、強くて、優しくて、私も何度も助けられました。でも、いつかきっと、どこかでこういうことになるだろうというのも、わかっていたんです。私たちは、天使は、ヤシマの敵で、たぶん、人間の敵ですから」
 流される涙は誰のためか。討たれた天使兵を悼む涙か、討った恋人を慰める涙か。
 それは誰にもわからない。
「……ミシェルはもう天使じゃないだろ」
 言葉が見つからない。ミシェルの友人を殺した自分が、なにを言えば慰めになるというのかわからない。
「……人間は、いつでもそうです。人間ではないものを排除したがる。天使が天使というだけで排除し、たとえそれと分かり合うことができたとしても、それを天使として受け入れることができない」
 ぞっとするほどに冷たい、ミシェルの言葉。それは、ミシェルにしかわからない気持ち。
 自分という形を変えられて、人間という尺度でしか理解されないことへの憤り。
 彼女はきっと、ずっと一人だったのだ。
「私はバカだったから。ずっとそれがなんなのかわかりませんでした。研究所に送られて検査を受けている時も、瑞穂基地に戻ってきて仕事をしている時も、私のことを、私が天使だったことを知っている人は、みんな最初はぎょっとして、私があまりにも人間にしか見えないことを確認してから、ほっとするんです。……わかりますか? 鎖にこそ繋がれていないけれど、私はずっと、動物園に飼われる珍獣と同じ扱いを受けていたんですよ?」
 血を吐くような、身を切るような言葉を、しかし、笑顔で。
 笑うしかない時に笑う顔の形で。
 言葉がない。絶句する。
 大事なものを守るために戦う。それが彼の意志だった。
 じゃあ、これはなんなのだろう。彼が守ったものを泣かせているのは誰なんだろう。
「一矢さんは違う、一矢さんはそんな人じゃない、私はそうやって否定して、否定し続けることで、私がここにいる理由、ここにいてもいい理由を作りました。作ってきました」
 それなのに、あなたもそう言うんですね、とミシェルは言った。
 一矢は返す言葉もない。悪意はなくとも、人は傷つくのだ。
「俺は。……俺はバカだから。いままでだってミシェルを傷つけてきたと思う。それについては謝る。謝ることしかできない。でも、それは……」
「わかってます。わかってるんです。一矢さんが本当に私のためを思って、いままでいろいろしてくれたことも。それには感謝しています。それは嘘偽りのない私の気持ちです」
 でも、とミシェルは続けた。
「でも、だめなんです。どうしても思ってしまうんです。あなたは人間で、私は人間以外のなにかなんだって。天使の力を失った私は、人間になれたんだと、そう思っていました……それでもきっと、私は人間以外のなにかだったんです」
 それだけのことなんです、と言葉を切って、ミシェルは一矢に背を向け、走り出した。
 駆け出そうとした一矢は、しかし駆け出すことができなかった。
 駆け出して、追いついて。なんて言う?
 たたらを踏んでいる一矢を見かねたのか、篠宮秋が、その背を叩いた。
「らしくないね」
「……うっせえよ」
 背中を押されたのだ、ということはわかる。秋は、ミシェルを追えと言っているんだということはわかる。
 だが、肝心の部分がわからない。追いかけて、それで?
「ミシェルを守るって言葉は嘘だったわけだ?」
 それは、ミシェルが実験動物としてヤシマに来たとき、一矢が言った言葉だ。道具扱いされるミシェルを、それを受け入れていたミシェルをどうしようもなく許せなくて、一矢はそう言った。
「嘘じゃねえ! 嘘じゃねえが……だが、どうしろってんだ? 俺こそがあいつを苦しめてたんだぜ?」
 無意識に。お前は天使じゃないんだと言いながら、どこかで天使として扱ってはいなかったか。ミシェルにとって敵しかいないヤシマの地で、たった一人、ミシェルの味方になったつもりでいた自分が、それでも、それだからこそミシェルを傷つけていたんだと突きつけられて、そのあまりにも大きな衝撃に、足がすくんで動けない。
 なにが守るだ、と今なら思う。俺に何が守れるってんだ、と痛烈に思う。
「苦しめ合うだけが人間関係じゃないさ。もちろんずっと幸せなわけでもない。確かに苦しかったこともあるかもしれない。でも、本当にそれだけだった? ミシェルは本当に、一度も心から微笑んだことはなかった? 君はいつでも、ミシェルの顔を曇らせてばかりだった?」
「んなわきゃねえだろ!? なんだって俺がそんなことしなきゃならねえんだ!! 俺はいつだってあいつに笑ってて欲しいって思ってたし、自由になって欲しいって思ってた!!」
「じゃあ、行けよ。傷ついてる奴が正しいなんて、誰が言った?」
 その一言は、あまりにも無神経だと、言えば言えたのかもしれないが。
 一矢はなにも考えずに走り出した。