(10)

 追いついて、肩に手をかけて、振り返らせて。
 泣き顔に、一瞬、心が挫けそうになる。
「……俺はお前を守ってた。守ってるつもりだった。……だから泣いてるんだろ?」
 守られなければならない自分を、自分の弱さを、立場を、すべてひっくるめて、耐えられなくなった。それは彼女の弱さだと、言えなくもないのだろうが。それでも彼女は、ずっと一人ぼっちだったのだ。
「あなたに守られなければならない自分が嫌でした。もし私が天使じゃなかったら、もし私が伊音さんみたいだったら、私はあなたの隣に立って、何の気負いもなく微笑むことができただろうと想像ができただけに辛かった」
 あなたの傍にいるだけで辛かった、と、そういう言葉だった。
 自分はいままでミシェルのなにを見ていたんだろう、と思う。なにを理解していたんだろう、と思う。自分勝手な正義感に任せて、他の誰よりもミシェルを傷つけていたんじゃないだろうか。
 守ること、それ自体がミシェルの負担になっていた。最初はそれが必要だったのかもしれない。それでもきっと、ずっとそれが必要だったわけではないんだろう。
 ミシェルが管制官になると言ったあの時、それに気づくべきだった。ミシェルが一人立ちしようとしている、そうは思ったが、まだ心配だという自分の甘さが、この状況を招いたのだろう。
 子供扱いをしていた、と、そういうことでもある。自分も子供のくせに、なにをわかった気になっていたのか。
「うまく……言葉に出来ないんだが、ミシェルは変わろうとしていた。俺はそれに気づかなかった。だからこうなったんだと思う。俺は自分勝手で、ミシェルを振り回してた」
「いいえ。自分勝手なのは私です。一矢さんの気持ちはわかってました。あなたは私が子供だと思っていた。だから守らなきゃって思っていた。私が天使だとかどうとかじゃなくて、私が子供だから」
 そう……なのだろうか。そう……なのかもしれない。
 天使だから、と、天使だったから、と、ことさらに考えたことは、あまりない。過去はどうあれ、今は今だ。特別区別するようなものではないが、あえて混同しなければならないようなものでもない。いまミシェルはここにいて、自分と一緒にいる。それ以上のなにが必要なのか。
「わかってるんです。これは私の矛盾なんです。あなたに守られていることを、私が勝手に負い目に感じているだけなんです。……私はあなたが好きだから」
 あなたの負担にはなりたくなかったんです。
 好きだから、守りたい。好きだから、守られたくない。
 思いは同じなのにすれ違う。同じはずの気持ちが噛み合わない。
 人は生まれた時から孤独で別々だと言う、ただそれだけのことなのに。
「……例えば」
 言葉を捜しながら、見つからない言葉を捜しながら、それでも必死に言葉を紡ぐ。
 そうしなければ、何かが壊れてしまう。
「俺はこれから、ミシェルの望む通りにする。ミシェルが守るなって言うなら守らない。手を出すなって言うなら手を出さない。それがミシェルにとって必要だって言うなら、俺はそうする」
「はい」
「でも、じゃあ俺はなんなんだ? ミシェルはミシェルで、そうして欲しいのかもしれない。そうしなきゃいけないのかもしれない。じゃあ俺は? ミシェルがやろうとしていることを、ミシェルに任せきりにするだけなら、俺がいる必要は?」
「……」
「……違うだろ? そういうことじゃねえよ。ミシェルの気持ちはわかった。俺はいままで無神経だった。だったらこれからもっと話し合えばいいじゃねえか。ダメだから全部やめるとか、いいから全部やるとか、そんなことじゃないだろ? それじゃあ結局変わらないじゃないか。今度は俺が、ミシェルを守れない、って思うようになるだけだろ?」
 好きだからできること、好きだからしてはいけないこと、それぞれあるのはわかる。それぐらいはわかる。だからって極端に走ったってしょうがない。互いに手を取って共倒れするならなんだっていいけれど、そんな後ろ向きな関係になりたいわけじゃない。
 共に生きようとするのなら、それぞれに出来る最善をしていかなければならない。それは、なにかをしていいとか、なにをしてはいけないとか、そういうことを決めることではない。
「頼りないかもしれないけど、もっと弱音吐いてくれたっていいんだぜ? 俺は絶対にミシェルを嫌わない。だからさ」
 手を差し出す。一矢は手を取ってもらうことを望み、ミシェルは手を取ることを望んでいる。
 それ以上のなにが必要なのか。
「……一矢さんは、優しすぎるんです」
 ミシェルに手を握られた、と思った瞬間、強く引き寄せられた。
 なにを、と思う間もなく唇を奪われる。普通、役所が逆だ。
 そしてその瞬間、背後から花火の弾ける音やら指笛の音やらが一斉に上がり、凄まじいまでのお祭り騒ぎの音が発生した。
「よっ、色男っ!」「いやあ、若いってのはいいなあ」「久しぶりにいいもん見せてもらった!」「頑張れよご両人!」「まあ、こうなると思ってたんだけどな!」「青春だねえ。青い春だねえ」
 口々に好き勝手なことを言われているらしいが、状況が掴めずに、半ばミシェルを守るように抱き締めていると、ぽんと肩をたたかれた。
「まあ、なんだ。頑張れ」
 指導教官こと坂上重蔵が、なんとも言えない微妙な笑顔で激励してくれた。
「驚いた。一矢にこんな甲斐性があるなんて」
 素で驚いているらしい篠宮秋が、鈴蘭苺を伴ってそこにいた。
「大変だぞ? その、なんだ……いろいろと」
 先達の苦労を偲ばせる希凪和音が、心底同情した眼差しで立っている。
「……なんだこれ」
 他に言葉が出ない。
「伊音よりミシェルを選んだ一矢君激励会? みたいな」
 場を代表して秋が説明してくれる。なるほどそういうことか。どういうことだ。
「まだ、手を出すのは犯罪だぞ」
 重蔵さんが、説得力があるのかないのかわからない表情でそんなことを言っている。
「……イツカラミテタンディスカ?」
「わりと最初から。そして最後まで」
 基地中の人間が総出で騒いでいるんじゃないかと思うような状況に、眩暈を覚える。待て、ええと、その、なんなんだ。
「まあ、色男の定めってやつだよ。妬まれるのも役得だと思わないと」
 秋が他人事の顔で空々しく言ってくれやがる。
「オ・マ・エ・ラー!」
 一矢はとりあえず状況を理解して、騒ぎ立てる連中を沈黙させるために実力行使に打って出た。
 別に逃げる必要もないのだが、秋も和音も走って逃げる。
 置き去りにされたミシェルは最初きょとんとしていたが、その場に残った重蔵をちらりと見上げて、よくわからない、という顔をした。
「どうもな。お前らが最近、うまくいってないって噂があってな。それでちょっと調べたんだが、実際、うまくいってないようだった。それでまあ、いらんお節介だとは思ったんだが、なんとかしてやりたいと思ってな。こうなるようにお膳立てした……ってわけでもないんだが。せめてうまくいったらお祝いぐらいしてやろうと思ってたんだ」
 お祝いなんだかお祭りなんだかわからないが、たぶん当事者の誰もそれの区別はついていなかったが、これが自分と一矢をみんなが想ってくれていたということなのはわかった。
「……そう、ぽろぽろ泣くな。お前が泣くと周りは気が気じゃないんだ」
 ぽんぽんとミシェルの頭に手を置いて、追いかけっこをしている一矢と秋と和音を見ながら重蔵は呟く。
 ミシェルは答えることもできず、悲しくないのに泣けることの幸せを噛み締めていた。