(17)

 ずっと調子は悪かったので、その天命がついに尽きたということには、特に感慨はなかった。
 ただ、ひたすらに面倒だという気持ちだけがある。なんとか基地近くまでは辿り着いたものの、ここから先どうしろというのか。
 まあ、押して歩くしかないが。そう胸中で愚痴って、ヘルメットを脱ぎ、エンジンのかからなくなった原付を押し始める。ちょっとそこまで買い物に、というのは、軍属としてあまり誉められたものではないことは自覚しているが、そこは階級にものを言わせてなんとか押し通した。
 珍しく、基地内の売店でも売り切れだった、という事情もある。こんなものが売り切れになることなどないと思っていたが、ありえないと思っていることでも起こるのが世の中というものだ。
 少し歩いただけで、額に汗が浮かぶ。元より体力には自信がない。でなければこんな乗り物を使う道理もない。
 不意に、原付を押す手が軽くなった。なにかと思えば、見慣れた顔が原付を後ろから押していた。
「よう、嬢ちゃん。苦労してるな」
「整備長。……なにをやっているんですか?」
 瑞穂基地整備班班長、中島三郎だった。
「故障してる原付を押してるわな」
 そんなことはわかっている。だから聞きたかったのはそんなことではなく。
「手伝いなど不要です。自分一人で大丈夫です」
 そんなことを言うために、足を止める。自分でも、なんでこんな意地を張っているのか理解できなかったが、中島の顔を見た瞬間、思わずそう言ってしまっていた。
「別にいいじゃねえか。俺も煙草買った帰りでよ。基地にゃぁ売ってない煙草だもんで、まあしょっちゅう抜け出すんだがな」
 それは答えになっていない。言いながら、懐から取り出した煙草に火をつける。
「俺が押してってやるよ。ついでに修理もしておくからよ」
「あなたにそこまでしていただく理由はない!」
 反射的にシートを叩く。自分はなぜこんなに激しているのかと思いながら。
「別にいいじゃねえか。普段迷惑かけてるお詫びだよ、お詫び」
 少し驚いた顔をした中島は、それでもそれを気にした風でもなく、淡々と言い切る。煙草の煙を空に向けて吐き出し、まあ、座れよ、と言いながらシートを示した。
「確かに俺ぁ普段っから嬢ちゃんに迷惑かけてるからよ。煙たがられてるのはわかるが。それでもそこまでしなくてもいいんじゃねえか? 繊細な俺もちょっと傷つくぜ」
「……繊細な人間は自分のことを繊細だなどとは言わないものです」
 ちげぇねぇ、と言いながら笑う。
「別にいいじゃねぇか。少しばかし俺の手を借りてなんの不都合がある? 書類の不備を目こぼししてくれってわけでもねえぜ? そこらの整備屋に出すよりか俺のほうが早いし確実だ。金も取らねえ。なにが不満なんだ?」
 不満、ではない。不満、なわけではない。不満ではないことは不満だが、それが理由ではない。
 私はただ。ただ、そう。
「……私を子供扱いするのはやめていただきたい」
 嬢ちゃん、と呼ばれるのが気に入らない。明らかに子供を見る眼差しなのが気に入らない。自分は大人なんだぞと言っているその笑みが気に入らない。
 私は子供ではない。中島よりも年上なのだし、それなりに辛酸だって舐めてきた。
「子供扱い? 別にそんなつもりはねえが」
「じゃあ、なぜ」
「子供っつうのはな、うちのガキみてぇのを言うんだ。親父様の言うことは聞かねえはあぶねえ代物ばかり作るは、挙句の果ては軍なんかに入って人殺しの道具を整備してやがる。あいつが大人で、自分で選んだ道だってんなら俺がとやかく言う筋合いじゃねぇが、あいつはただ、俺の背中を見て育ってきただけだろうよ。だからまあ、それは俺がわりぃよなとは思うし、あいつには甘くもするし、厳しくもする。でも、嬢ちゃんは違うだろ?」
 違う、のだろう。違うようだ、ということはわかる。
 だが、納得できない。したくない。
「俺はこれでも嬢ちゃんを一人前に扱ってるつもりだぜ? 仕事はできるし間違いもない。状況判断は出来るし融通も効く。ちっとばかしきついが、そこも気に入ってる」
 気に入っている、という言葉に、鼓動が跳ねる。
「だから俺は俺なりに、嬢ちゃんに敬意を表してるつもりだがな。まあ、口がわりぃんでそうは思えないかもしれねぇけどよ」
 だから原付直すぐらいはどうってことねえよ、と言って、大きく煙を吐き出し、携帯用灰皿で揉み消す。
「嬢ちゃんがかたっくるしく考えすぎなだけなんじゃねえか? 誰も気にしてねえと思うぜ?」
 そう言われれば、そうなのかもしれないとは思う。自分が頑なに、必要以上に頑なになっている自覚も。
 わからないのは、それがなぜか、ということだけだ。
「……わかりました。以後、気をつけましょう」
「そうしてもらえると助かるかな。すまんね、わがまま言って」
「いえ……こちらこそ……」
 気にしすぎ。確かにそう言われればそうなんだろう。自分はどうも、必要のないところで思い悩む癖がある。ような気がする。
 だがしかし、それは……どうしろというのか。
 煙草を揉み消した中島は、コレットよりもよほど軽快な動きで原付を押し始める。普段から整備で鍛えているのだから、それも当然だ。
 言いようのない焦燥に身を焦がしながら、基地までの道のりを黙って歩いた。