(29−2)


 取り立ててやることがあったわけではない。
 初の殺人以降、続けて人を殺していた、というわけでもない。
 ただ無気力に学習メニューをこなし、訓練メニューをこなし、知識と技術を練磨していった。
 研究者にしてみれば、自分が母親と弟を殺したのもただの実験の一環であって、成功だったか失敗だったかには興味があったとしても、自分がどうなろうとも知ったことではない、ということがわかった。なにをしても許される実験体……なにをさせても許される実験体。特権と言えば特権だろうし、まがりなりにもミカドのクローンだからこそ人並に扱われているが、その実、檻に閉じ込められた実験動物と大差ない扱いで、日々観察され続けた。
 一年ほどが経って、担当の研究者が変わった。別段、前任者に手落ちがあったわけでもない。芳しい成績を残したというようなこともないが、卒なく、無難にこなしていた。
 だからそれは、人事的な背景があっての交代ではなく、新たな実験としての交代だったのは間違いない。間違いないというか、担当者の交代を告げられた時点で、それを理解していた。
 そして、新しい担当者を一目見て、確信した。ああ、やっぱりな、と思った。
 その研究者は、母親にそっくりだった。
 といっても、幾分か若い。最初に名前を名乗られたが、聞き覚えはなかった……そもそも、自分は母親の名前も知らなかったんだなと、その時気づいた。母親のことはずっとお母さんと呼んでいたのだ。名前などなくても問題はなかった。
 どう問いかけたものかはわからなかったので、単刀直入に聞いてみた。あなたは僕のお母さんですか、と。
 研究者は苦笑しながら首を振って、あなたのお母さんの妹よ、と答えた。
 見覚えがあったのも当然で、似ていたのも当然で、自分と細胞を提供したミカドの相似性と同じ程度には、母親と後任者も似ていておかしくなかった。遺伝子というのは、そういうものだ……それがすべてを決めるわけではないが、それが大部分を決めるのは間違いない。
 最初にあったのは警戒心だった。なぜ母親の血縁者が自分の担当になるのか理解できなかった。あるとすれば、母親の仇を討つために……つまり、復讐するために自分の担当になったのではないか、と思ったが、こんな環境下……行動の逐一を監視され、プライバシーなど欠片も存在しない状態で、仇討ちなど出来たものではないということも、わかっていた。どう考えても自分より弱そうなその女に、それだけの監視の目を掻い潜って復讐を遂げるだけの技量があるとは思えなかった。
 実際、技量以前に、その女はとろかった。ぼんやりしているというか、なんというか。どじで、のろまなのだ。頭はいいが、身体機能は(健康そうではあったが)制御訓練をまともにしていなかったんだろう、歩くだけでも転ぶことのあるレベルだった。どうやたらこんな人間が出来るのか教えてもらいたいぐらいだ。
 あの母親でさえここまでではなかった、と、その女と母親を比較する瞬間だけ、気分が悪くなった。それ以外は、当初の警戒が嘘のように仲良くやっていたと思う。むしろ仲良くやっていた、という事実自体がおかしな話だが。前任の研究者とは、仲良くしたことなど一度もない。
 二年を共に過ごした。自分は学習と訓練を続け、その合間に母親の妹と家族ごっこを行い、まるで普通の人間のように暮らした。母親と弟を殺したことが嘘だったんじゃないかと思える安定した日々が続いた。
 お陰で、忘れてしまっていたのだ。この関係が実験なんだということを。
 母親の妹には、その自覚はなかったと思う。だからこそ自分は警戒を解いたのだし、だからこそ自分は油断したのだ。
 ある日、深刻な顔をした母親の妹は、この研究所から逃げましょう、と言い出した。
 なにを言っているんだ、と思ったし、そう答えた。別にこの環境に不満があったわけではないし、出られるなんて思ってもいなかったし、逃げたところで行く宛もないことはわかっていた。自分は十分に打算を働かせることの出来る子供だった。学習の成果は、訓練の成果を加味したとしても、この研究所を出るデメリットのほうが大きいと判断を下していた。
 ここにいればあなたはダメになってしまう。きっと私もダメになってしまう。だから逃げましょう、と彼女は言った。
 自分と一緒にいない間、彼女が何をしていたのか、どんな仕事をしていたのか、なにも知らなかった。興味もなかったし、彼女も言おうとしなかったから、聞かないでいようと思った。自分は実験動物で、囚われの身だ。日々のメニューをこなしていれば不具合はないし、あえて波風を立てて自分を窮地に追い込みたいとも思っていなかった。
 だから自分は、結局のところ、いろいろなものを忘れて……忘れすぎていたんだと思う。彼女があの母親の妹であることすら、すでに意識しなくなっていた。
 彼女は説明するのももどかしげに、自分の腕を取った。そして僕が反対するのも聞かずに、無謀な脱出計画を語り始めた
 警備の人間が交替する隙を突いて……という、よくある方法は、よくあるだけに有効なのも事実で、こういう閉鎖環境の場合、初動段階でとにかく人目につかずにことを進めることが重要だ。人数が減っている状況であれば、人目につく確率は確かに確実に減るだろう。
 なぜそんなことをしようと考えたのか、自分でもよくわからない。人に言わせれば、彼女が好きだったからだということになるが、自分としては、そうは思えなかった。
 単純に、反対することを知らなかっただけに思う。命令されることに慣れきっていたから、強引に命令されると反対が出来なかった。気弱なと言えばそうなんだろうが、そういう環境で育った自分にとって、それが当たり前のことだった。
 そうして、機会を待って、脱出作戦は決行されてしまった。
 当然、うまくいくはずなどなかったのだ。彼女がそうすることは折り込み済みで、脱走開始直後こそ順調にことは運んだが、研究所を抜けてすぐ、捕縛されることになった。
 彼女はその場で射殺された。最後まで自分を逃がそうとして、おとりとして警備の前に姿を晒して蜂の巣にされた。
 彼女の語った言葉が、いまでもよくわからない。
 自由に生きるって、どういうこと?