(31−7)


 朝になって目を覚ました真智は、なぜかとても不機嫌だった。
 それは学校に行っても同じで、昼食の時ですら(さすがに弁当は作れなかったのでコンビニで買ったパンだったが)、始終不機嫌そうだった。
 自分はなにかしただろかと考えてたら、いつの間にか放課後になり、基地に戻ってきて、訓練の時間になっていた。
 訓練の間も、ほぼ無言。必要最低限以下の言葉だけでもコミュニケーションは取れたが、そんな状態で効率も上がるわけもなく、ほとんど成果なしという状況だった。
 そしてそんな状況のまま夜になり、また真智が部屋にやってきた。
「今日こそはっきりさせてもらいます」
 三行半でも突きつけられかねない紋切り型の口調で、リビングで正座した真智は、同じく正座させられた自分を前にして、据わった眼差しでぴしゃんとフローリングを叩いた。
「ヴァンはあたしに遠慮してます」
「……はぁ」
「遠慮っていうのとはちょっと違うけど。あたしはそんなに簡単に壊れたりしません。へこみやすいけど」
「どっちやねん」
「ヴァンは過保護です。あたしはヴァンが思ってるよりもたぶん頑丈だし、強いんです」
「そうなのか」
「そうなんです」
 なんだろう。どういう方向に進むのかさっぱりわからないという意味では、なんとも異質な会話だ。
「でも、ヴァンがあたしを守ろうとしたり、あたしを一方的に守ろうとした時は、あたしは傷つくんです。わかりますか?」
「ええと……まあ、なんとなく」
 口調が据わっているので、なんとなく押され気味になっていた。なんだろう。よくわからないけどものすごいプレッシャーを感じる。
「あたしにもヴァンを守らせてください。それが一つ目です」
「他にもあるのか」
「ありまくりです」
 そこでまた、ぴしゃんと床を叩く。黙って聞け、ということか。首をすくめて、口を閉ざす。
「なんでベッドから抜け出てたんですか」
「……いや、聞かれても」
 あの後……つまり真智に欲情してしまった後、頭を冷ましたまではよかったものの、どうしてもベッドに戻る気にはなれず、床に毛布を引いて転がっていた。まさかそれが気に入らなかったのか。でもなんで。
「あたしとは一緒のベッドで寝るのも嫌だということですか」
「んなわきゃあない」
「じゃあなんでですか」
「いや、それはだって、おま……なあ?」
 はっきり言っていいものかどうか逡巡する。というかなんで自分がそんなことを問い詰められているのか、いまだに状況を把握できていなくて、困惑ばかりが増していく。それで余計煮え切らない態度になっているわけだが、それがさらに真智の強気をヒートアップさせているような気がした。
「あたしが一緒にいたかったから、一緒のベッドで寝てたんだし、手を繋いでたんです。わかりますか?」
「……はい」
「あたしは。……あたしは」
 そこで一度口ごもって俯いて、数秒の逡巡のあと、顔を上げた。
「あたしは、ヴァンとならいいって思ったから、一緒のベッドに寝たいと思ったんです。そこのところ、本当にわかってますか?」
 必死な真智の真っ赤な顔を見て、なんだかそれがいまの状況にまったくもって似合ってなく思えて、それでなんとなく笑い出してしまいたくなったけれど、いま笑い出したらきっと真智は首を絞めてきかねない勢いがあったので、口元だけ引きつらせて、なんとなく謝っていた。
「ええと、その……期待に応えられなくて、ごめん?」
「期待してたわけじゃありません!」
 でも期待してなかったわけでもないけど、でもそういうのとは違くて、でもだからえーっと、と一人でいきなりテンション盛り上げてる真智に圧倒されて、結局この話はどこに落ち着くんだろう、とか逃げ腰で考えたり。
「そうじゃなくて! ……なんでヴァンは逃げるの? あたしがヴァンに近づけば近づくほど、なんでヴァンは遠ざかろうとするの?」
 哀願されて。……そうとしか言えない眼差しで迫られて。これが本題なんだと気づくと同時に、いつの間にか退路が絶たれていたことに気づかされた。
 なんてこった。いつでも逃げ道を確保するのが自分の流儀だったというのに。
「……そう聞かれたら、その、なんだ。俺としては、真智さんが大事だから、としか言えねえんだがよ」
「ぜんっぜん答えになってない、それ」
 据わった眼差しで睨まれて、窮する。なんだろう。追い詰められてるのは確かだが、なんとなく楽しい気がしてしまうのはなぜだろう。
「いや、正味の話だ。真智さんがそんだけ肝を据えてるってんなら、俺も答えなきゃなんねえから答えるけどよ。俺みたいなのは、真智さんの傍にいないほうがいいだろ? なにやったって空回って、真智さんのして欲しいことは何一つできなくて、そういうことをしようとすればするほど真智さんを傷つける。……いまみたいに。だから」
「だから、離れたほうがいいって言うの?」
「……まあ、そういうことだ」
「……そんなのいまさらだし、それに、酷いよ」
 いまさらだし、酷いことだとわかっていたから、今まで言わなかった。言ったらいまみたいに真智を傷つけるとわかっていたから、今まで言わなかった。
 俺は、俺自身に自信なんて持ってない。なにもかもうまくできない自信ばかりが一杯で、だからこそ常に最悪のケースを念頭に立ち回って、それが結果的になんとなくうまく回って回避できていることがあるに過ぎない。
 過剰にネガティブに現状を設定する。そんなものは、真智を救いやしないし、守れもしない。いみじくもいままさにそれを証明してしまった。
「どうしてヴァンは、そんなにあたしのことを大事にしてくれるの?」
 それが、真智にとってもクリティカルな質問であるということは、その表情からも容易に察することが出来た。その理由が、真智が理解できなかったり、納得できないものだったら、真智はきっと、また傷つくだろう。
 それでいて、嘘とか慰めとか、そんなものは欠片も欲していないのもわかった。だったら、素直に答えるしかない。それが自分の弱味だった。
「こういったら真智さんは怒るかもしれないし、理解できないかもしれないけど、理由なんてないんだ。本当に」
 気がついたらそういう存在になっていた。自分が笑っているよりも真智に笑っていて欲しかった。真智が辛い思いをするよりも、自分が辛い思いをしてあげたかった。最初はただ守りたいと思っていただけなのに、いつの間にか自分よりも大切なものになっていた。
 理由をつける気になれば、それこそいくらでもつけられただろうと思う。出会いの時のことや、学校の屋上でのことや、学園祭での出来事や。
 でも、そんなものじゃない。理由をつけようとすればするほど、理由を見出そうとすればするほど、それが嘘っぽく感じられてしまって、本当はそんなことは関係ないんだと思ってしまって、だから、最後はいつも、それには理由なんてないという結論になってしまう。
「いつの間にか好きになってて、いつの間にか大事になってた。それが俺の本心なんだ」
 真智はその言葉を聞いて、ただなにも言わず、黙っていた。
 視線は自分を向いていたが、自分に向けられていたわけでもない。なにかを考えている気配だけが伝わってきた。
「……なんでさん付けで呼ぶの?」
「……え?」
「なんでヴァンは、あたしのことをさん付けで呼ぶの?」
 まさかそんな切り口で来るとは思っていなくて、今日何度目かの素の自分の露呈をやってしまった。
「なんでって言われても。なんとなく」
 特に理由なんてない。なんとなくそう呼ぶようになって、気がついたらむしろ呼び捨てにするのが気恥ずかしくなっていて、だからそのままさん付けで呼ぶようになった、というだけのことだ。
「それは嘘だよ。ヴァンは、あたしが雪緒と出会ってから、あたしのことをさん付けで呼ぶようになった」
 雪緒。鷲峰雪緒。あの女。
「あれ以来、ヴァンはあたしと距離を置こうとしてる。それはなんで?」
「……なんでって言われてもな」
 最初に感じたのは、やっぱりそうなんだ、ということだった。真智が自分だけのものになることなんて、やっぱりありえなくて、自分以外の誰かとの世界を作っていくだろうという、そんな当たり前のことを思ったにすぎない。
 それが、思ったよりも自分の中の空虚な穴になった。距離を置こうとしている、といわれれば、それが原因なんだろう、とは思う。
 ただ、それは前から思っていたことが現実になったにすぎない。やっぱり真智には、自分じゃなくて、自分じゃない誰かと一緒にいるほうがいいんだ、と思っただけだ。
「あたしはヴァンが一番大事。他の誰とも比べられない。ヴァンがどうしていまあたしの前で辛そうな顔をしているのかもわからないあたしだけど、ヴァンにそういう辛い想いをして欲しくないと思うのが、あたしの本心」
 ポーカーフェイスを気取ったところで、全部ばれていたわけだ。……それは、そうだろう。自分の感情偽装技術は、見ず知らずの他人、その他大勢に向けてのものであって、目の前の大事な人に向けるものじゃない。こんな状況では、容易く仮面を剥がされる。その程度の銀メッキでしかない。
「もっとあたしを頼って? もっとあたしの傍にいて? これはあたしの我侭なんだよ」
 真智の手が、そっと自分の手に触れる。それをどうしていいのかもわからずに、指先一つ動かせずに硬直する。
 ダメなんだ。君が優しければ優しいほど、君が強ければ強いほど、俺は君に近づいちゃいけないんだと、俺なんかが君を汚してはいけないんだと、そういう気持ちばかりが増してきて。
 シャルロッテを死に追いやった自分は、シャルロッテのような強く優しい奴でさえ死に追いやった自分は、その強さや優しさこそが死を招くと知ってしまったから。
 だから、何も考えずにその手を取りたいと考えているはずなのに、どうしてもその手を取ることができない。
「あたしはあなたを傷つけないから。あなたがあたしを傷つけないように」
 それは、矛盾に満ちた言葉にしか聞こえなかった。
 ついさっき、自分の迂闊な言葉で傷ついた女の子の言葉とは思えなかった。
 それでもそれが真智の本心で、真智の本心であって欲しいと思う自分がいて、真智がそう言ってくれるならそれでいいと思う自分がいて、だったらそれでいいんじゃないかと、そう縋りたくなって。
「……いいのかな。こんな俺で」
 恐る恐る、真智の手を握り締める。握り返してくれた真智の手は暖かかった。
「いいとか悪いとかじゃないよ。あたしはヴァンが好きなんだから」
 好きだということが、まるで免罪符であるかのように囁いて、真智は微笑んだ。
 真智のそんな笑顔を見ていられなくなって、握った手を強引に引き寄せて、抱き締めた。
 わけもわからず溢れる涙を見られたくなくて、そんなかっこ悪いところは真智に見られたくないなんていういまさらなプライドに突き動かされて。
 ただ歯を食いしばっていた。自分が許され認められるということが、こんなにも辛く苦しいことだとは思いもしなかった。