テストプレイその2

(編集してくれるこくりんには悪いけど)締め切りをぶっちしまくりつつ、ようやくテストプレイが完了。
後、寝込んだ。いろいろ体がアレゲらしい。のはまあいいとして。


今回のシナリオは、(私的には)ものすごくオーソドックスなものにしたつもり。
考え方なのだろうとは思うのだけど、私はシナリオというかセッションで一番重視するのはディティールで、全体の調和なので*1、部分が突出してたり逆に引っ込んでたりするのは、あんまり趣味じゃないわけです。
楽しけりゃいい、ってのは当然ゲームなんであるんですけど、なにが楽しいのかについて不必要なまでに自覚的なので、たぶんそういう方向に進むんだろうと思うわけですが、ついてくるほう、というか一緒に遊ぶほうにしてみれば、わりと微妙なんだろうなというのもわかってるつもりです。
なぜって私が二人いたら事故になるだろうから。
だけどまあ、スタイルの話は善し悪しではないし、実際に私が二人いるのを見たことあるわけでもないので、こんなものはただの杞憂なんでしょうけども、自分のスタイルについて自覚的であるということはいろんな場面で重要な意味を持つんじゃないかなと思うわけです。


スタイルのミスマッチは時に劇的な効果を生むことがありますけども、そんなものは奇跡的に事故にならなかった事例なだけで、「スタイルのミスマッチ=劇的な効果の要因」なんて短絡的に考えて毎回そういうことしようとしたら、それは失敗するわけです。
ここで重要なのは、一つの偶然の結果を普遍的な結果と錯覚して毎回同じことをしようとする、ということで、例えばこれはシステム論に置き換え可能だと思うんですけども、システムというのは成果を約束するものではなくて、あくまでもそのシステムを利用・運用する人間こそが重要だ、ということを忘却すると、「これをやれば大丈夫」が蔓延して、事故率が上がるんじゃないかなと思います。
というか最近のサークルでのセッションがそんなだったので。


慣れるのは大事ですけど、慣れたからって慣れっぱなしにしてると変化もないから成長もなくて、成長がないということはルーチンワークに堕するわけで、だんだんと遊んでても面白いものにはならなくなっていくんじゃないかなと思います。いわゆるRGP的な「ひたすらレベル上げ」に近い「作業」になっていくだろうと思うからです。
なので、システムにしろなんにしろ、定期的に見直しをかける、実際に直さなくても、現状を再確認するということは大事なことだと思います。
「現状を再確認する」ことがルーチンワーク化したら、なんか手のつけようがないような気がしますけど。
「悪魔の代弁者(悪魔の代弁者 - Wikipedia)」というのは組織において有用なんだな、ってことと、悪魔の代弁者が悪魔の代弁者として活動できるためにも、自由な発言が許される風土が大事なんだろうな、という気がついたらセッションの感想がいつの間にか組織論になっててびっくりしながら終了。


追記
私はサークルでは運営支援という立場にあるので、悪魔の代弁者を自任してます。サークルメンバーはたぶん言うまでもなくわかってくれてると思いますけども。

*1:一見矛盾しますが、「部分と全体は相似する」理論の推奨者なのです