共有される情報

学校賛美をするわけじゃないですけども、現代日本において、大体似たような経験をしているだろうという幻想を共有できるのは、義務教育時代、小学校とか中学校だと思います。
私はドロップアウトしたクチなのであんまり共有するものがなかったりしますが、「小学校での生活」とか「中学校での生活」とか「高校での生活」とか言ったら、大体の人が同じものを想像すると思います。実質にはものっそい差が絶対にありますけども、その差を無視して観念化できる程度には。(高校は女子校とか男子校とかあるから微妙かなーと思って最初の段落では除外してます。小・中学でもあるんですかね。知らないんですけども)


現代ファンタジーと呼ばれるような、「書き手も読み手も大体同じ風景が想像できる」舞台が好まれるのは、中世ファンタジーだと、「書き手も読み手も同じ風景を想像しているかどうか怪しい」舞台になっちゃうと、その擦り合わせに労力が必要になっちゃうので、その労力をショートカットできるから、だと思います。
極端な話、舞台は舞台でしかないので、現代ファンタジーだろうと中世ファンタジーだろうと、同じプロットでお話は作れます。筆致力の問題はあるにしろ、作るだけなら作れるものです。その上でわかりやすさ、読みやすさを追求するなら、現代ファンタジーが合理的選択になるわけです。


日常会話においては、たとえば同業者には、細かい説明は必要ありませんが、他業者、あるいは社内であってもまったく別の業務を担っている人同士であれば、所与のものとして共有されている情報があまりにも違ってきます。
そのギャップを埋める装置としてのGMであろうか、それともそれはセッション参加者全員が埋めるべき落差であろうか、なんてことを考えました。