地獄の釜の蓋が開いた

罪があれば罰があり、地獄というのは罰の代表なわけです。
"死後の世界"を「黄泉の国」と総称し、黄泉の国の部分として、天国と地獄がある、という階層構造を用意したとしましょう。
死後の世界のさらにその先になにかがあるのか、ないのか。生は死へと至る過程であるとしたなら、死はなにに至る過程であるのか。
思考実験でしかありませんが、どうせファンタジーならそういう思考実験を盛り込んでもいいじゃないという開き直りを元に考えてみる。


罪人は救われない、としてしまった場合、地獄で与えられる罰の意味が薄れます。ただの責め苦には救いがなく、罪人=悪いことをした人は、死んでも救われない、という説教的要素からすればそれでもかまわないかもしれません。
が、悪とは社会的な要素であって、自然的なものではない以上、どんな時代にも必ず悪人はいるし、時代によって評価が変わり、独裁的な善人の皇帝が、民主制政治の時代においては一方的に悪人とされることになるかもしれません。
では、悪とはなにか、善とはなにか、死んだ時点で悪であればいいのか、死んだ時点で善であればいいのか、天国には堕落はないのか、地獄には贖罪はないのか。
天国には堕落はありません。なぜなら天国は正しい者がいくところだからです(たぶん。あんまり詳しくはないです)。でも地獄には贖罪はあるかもしれない。外部的な苦痛によってにしろ、自分がしでかしたことはこんだけの苦痛を受けるに値することだったんだと思い至る罪人だって、いてもおかしくないでしょうから。
そうでないなら、自分の犯した罪に応じた罰が与えられる地獄の機能が無意味になっちゃいます。現実は基本が禁固刑なのでアレですけども。


で、地獄には救いがないのであれば、罪を悔いても悔いなくても変わらないことになります。本当に救いがないかどうかは知りませんけど。
行ったら終わり、審判の門を潜るまでが勝負です、というのは、なんだか成功の方程式みたいな、これをやれば大丈夫みたいな教条主義の匂いがします。
そういうのはあんまり好きじゃないので、ちょっと考えてしまう。じゃあどういう地獄なら救いがあるのか。地獄には救いがあっていいのか。隣人を愛することができるようになったものを罰するのは正しいことなのか。


まあ、ここらの問題は、贖罪というものが可能かどうか、という話で、こういうのは大体、騒動とか悶着の種になるので、どれが正しい、なんて話はしませんしできませんけど、「この世界ではこうなっている」という風に設定することはできます。
極論すれば、「殺されても許せるか」って話です。もっと言えば、その世界の神様はそれでも許せって言うかどうか、かもしれません。そもそも許すだの許さないだのいう観念を持ち出すのが正しいのかってことかもしれません。
生者必滅は自然の流れで、殺されても殺されなくてもいつか死にます。誰かが誰かを殺すことが誰かの救いになることもあるかもしれない。自分が殺されてもいいとは思わないけど、同時に誰かを殺してもいいとも思わないけど、でもそれはただの平和な状況に首まで浸かった感想に過ぎないのかもしれない。
重要なのは、おそらくそういった当事者の問題には、神様だろうと首を突っ込むな、ってことなんだと思います。それでも社会は法律とかで判断基準を共有しないとおかしなことになるから、規律を作りましょう、その基準は神様はこうおっしゃっておられるから、とかなるのかもしれません。


気持ちってのは、他人には量れません。後悔している/していないという基準は、残念ながら当人の中にしかありません。口先だけで後悔してても、本心から後悔してても、いわゆる被害者には加害者の言っていることが本当かどうかなんてわかりません。
贖罪は、結果的に、いわゆる加害者にしかできません。被害者の望むようにすることが贖罪になるかもしれないし、それ以外の方法で贖罪を望むかもしれない。どんな方法を選択するにしろ、加害者が選ぶんです。気持ちの問題ですから。それで被害者が納得するかどうかは別の話。
例えば泥棒が、罪を悔いて、泥棒の被害者が出ないように、防犯活動に精を出したとしましょう。でも実際の被害者は、泥棒がそんな社会的奉仕をするよりも、自分が受けた損害の賠償のほうが大事かもしれません。


突き詰めていけば、正しさなんてないんです。善なんてないんです。悪だってないんです。あらゆるものが道具主義的に機能だけを振りかざしてこの世は動いてるんでしょう。論理は感情とは相性が悪いことも多いですが、気持ちとは違って他人の言ってること/やってることが論理的かどうかはわかります。感情は社会と相性が悪いですが、論理は社会と相性がいいんです。
そしてそれは、目で見たものしか信じられないということでもあります。たぶんきっと、それはさびしい生き方と言われるんじゃないでしょうか。目の前の現実に対処するのに一杯一杯な人にこんなこと言うつもりは欠片もありませんけども。


正しさなんてない、と言い切った上で、私は正しさを信じるような人間なので、まあ、そういう世界観を作っていけたらなーと思ってます。