TRPGは悪意に弱い

17:プレイボーイは、すべてを笑って受けとめる:NBonline(日経ビジネス オンライン)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080624/163479/

 否定するのは簡単だが、肯定するのはとても難しい。ものごとを認める、肯定する、受け入れる――、とりあえずでもいいから受け入れてみようという人は、人生の“ものさし”も長いような気がするのだ。人間も同じなのだと思いますよ、私。人を見る目というのは、その人を認め、肯定し、受け入れる能力を言うのではないのかと。そこに、人としての“器”も関係してくるのかもしれません。懐の深さというかね。

引用文は実際には6Pです。


エントリタイトルの本質は、このあたりにかかってくるのかなと思った次第。「否定するのは簡単」ということは、悪意に繋がりやすい否定が簡単だからこそ、TRPGは悪意に染まりやすく、その負のフィードバックを受けやすいんだろーな、と。
こういうこと書くとまた誤解を招いて否定コメントとか否定コメントに見えやすいコメントとかつくんだろうなー、と玉石混合の砂利を見る気分な今日この頃。せめて本文をきちんと読んで欲しいなあなんてのは我侭なんでしょーね、たぶんきっと。
いままでのエントリ全部読んでくださいとまでは言う気はないんだけどなあ。読んでたらそれはねーわ、ってコメントもたまにありますが。
ま、いつプライベート設定にしてもかまわない個人ブログなので、手段の担保があるというのはおいておいて。


で、エントリタイトルの話ですが。
TRPGが悪意に弱いのは、スポーツではスポーツマンシップと呼ばれるよーな模範的プレイヤ像があり、それに忠実であらねばならないというモラルがあり、それに違反すると失格になったりファンが離れて生活できなくなったりする明白なルールがあるのに対して、そうした縛りが存在しないか機能しないからだ、と言い換えることもできると思います。
前提として、スポーツには公式大会があり、公式審判がいる、という差もあります。TRPGには、公式大会はあったとしても、公式審判は機能しえない。むしろメーカーの人間の悪評も聞かないこともない。
デザイナーで言うと、困ったちゃんのまとめサイトでは清松みゆきあたりがそういう扱いをされてたし。まあそんなのは一部の人間だけですし(たぶん。そうだといいなあ)、スポーツの公式審判に一人もミスジャッジをする人間がいない、なんてことでもありませんが。


違反者を取り締まれない。悪意はだだ漏れにするしかない。そんな状況にするしかないTRPGだからこそ、悪意には弱い。
非制御機構こそが自由度の保証である以上、前提として抱え込むしかない脆弱性だ、と言えますが、だからこそ、自衛の手段として、卓ごとだろうとサークルごとだろうとも、事前のコンセンサスは大事だ、ということなんでしょう。