英雄の物語

 その男は、最初から英雄だったわけではない。
 英雄になろうと思ったことすら、もしかしたらなかったのかもしれない。
 世界に再び危機が訪れようとしていることはわかっていた。このままでは人類が滅亡するかもしれないと、誰もが思っていた。
 それでも男は、世界を滅亡から救うために立ち上がったわけではなかった。ただ、己が失ったものを思い、これから失われようとしているものを思い、呻吟した。
 自分はそれを許せるだろうか。もしかしたら自分にも救えるなにかがあるかもしれないのに、ただ座して世界が滅亡するのを眺めていることができるだろうか。
 希望などという言葉は、とうの昔に枯れ果てていた。己が世界の片隅で生きていることこそが、その男にしてみれば世界の正しい有り方の表れだと思っていた。
 石を持って追われた。人殺しと罵られた。嘘つきと蔑まれた。狂人だと唾を吐きかけられた。
 失ったものはあまりにも多く、得たものはあまりにも少ない。それでもかつて、男は英雄と呼ばれ、世界を救ったのである。
 再び英雄と呼ばれる覚悟は、自分にあるだろうか。再び鬼となる覚悟は、自分にあるだろうか。
 自分のことだけを考えるなら、決断する理由はなかった。かつて英雄と呼ばれた男にも恐ろしいものはあったし、持てない覚悟もあった。許せないものも、許したくないものだってあった。
 世界のために、人を殺す覚悟を持つことはできなかった。それはいまも昔も変わらない。人を殺すために必要なものは、世界の危機などという大げさでちっぽけなものではなかった。
 守りたいもの。それがあれば、世界を敵に回すことすら厭わない。男にとっての正義とはそういうもので、世界の価値というのは、その程度のものでしかなかった。
 気がつけば、血塗れの剣を手に取っていた。かつてこの剣を振るったのは、とある小国の王女を救うため。最後にこの剣を染めたのは、国を守るためにその身を犠牲にした王女の血。
 大切なものを守るためになら、大切なものを手にかけることさえ厭わない。だから男は、いまでも自分のことを英雄だと思ったことはない。たとえ世界を救ったのだとしても、己は人を殺すことしかできない鬼なのだと知っている。
 鬼の手を借りなければ救われない世界など、滅びてしまえばいい。そんなものに救われる人間など、滅びてしまえばいい。
 大切なものを守れなかった悔悟は、いつしか男を本当の鬼に変えていた。
 これはただ、それだけの物語。