わたしとあなたの現実という虚構

「楽しい現実」とか「つまらない現実」とかいう表現があると思います。
ここで言う「楽しい」とか「つまらない」というのは、なにによって生まれるのだろうか、とふと思いました。「楽しい」とか「つまらない」という感情とはなにか、ではなく、そうした感情を生み出すものはなにか、という疑問です。その上で、そもそも現実ってなによ、って疑問です。かつ、疑問は出発点であって結論とは関係ありません。
あ、あと、本文はトンデモ話というか、オモロなネタ話ですよ。牽強付会疑似科学チックな思考実験でしかないです。いまさら書くようなことでもないですけど。


極論から推論していきましょう。
もしあなたが一人で存在していた場合。この場合の一人というのは、意思疎通できる存在がいない状態、とします。観察者しか存在しない世界、とかでもいいと思います。観察されるものが存在しない場合、観察者自身が成立しませんが、まあそれは置いておいて。
神様だけが存在している世界、というのが比喩としてわかりやすいと思います。特定の神話を想定しているわけではありませんが、そうした状態から始まる神話は現実でも物語の中でもそれなりにあると思います。
神様はなぜ世界を創ろうというモチベーションを持ったのか。それはわかりません。わかりませんが、神様は世界を創り、結果として人間が生まれ、神様が観察する対象と、神様を観察する存在が生まれたことになります。
世界を創った前後で、神様の現実はどう変化したでしょう? それを想像したあなたは、どう変化すると思いましたか?


相互に認識可能な世界が生じた次の段階に発生するのは、相互理解の不可能性、それぞれの存在の独立性です。ここでは、神の万能性はとりあえず否定されます。なぜなら、神が観察対象を思い通りにできるのであれば、それは観察にはならないからです。ただの追試です。(全知は別に否定されません。全知だけなら、対象がなにをするのかわかってたって、結果はどうにもできないですから)
この辺は単純に、人間が赤ん坊から成長する過程と考えても差し支えありません。赤ん坊の頃は、親が面倒を見てくれます。しかしある程度成長すると、親は子供の言うことをすべて叶えるようなことはしなくなります。子供はやがて自立していくからです。子供の自立が先か、親からの(自立を期待した)突き放しが先かは、水掛け論なので主題からは外します。
この辺については最近id:acceleratorさんも書いてました。趣旨は違いますけどね。

崖の上のポニョ - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む
http://d.hatena.ne.jp/accelerator/20080909/p1

ポニョは女の子なんですが、抑圧的な父のフジモトに監禁され子供のままでいることを要求されます。しかし、父の目を盗んで脱走して父を出し抜くところが、息子の父殺しではなく、娘の父殺しになっていて面白いところです。”ナウシカ”や”もののけ姫”にでてくる破壊的な男の子のような女の子像ですね。

どんどん例がシフトしていってますけども、この時、親と子供の間にある現実は共有されています。逆に言えば、それ以外の現実は、この両者間には存在しません。例えば、親と親の友人の間にある現実は、親と子供の間にある現実とは、(せいぜいが)親を介して間接的にしか関係しないということです。
先に書いた関係性の話にも繋がりますけども、現実というのは、細分化され、分断されている関係性の連なりであって、たとえば「世界」とか「社会」とかいう形で、最初から用意され、与えられているものではないということです。関係性を構築する上で、現実という界面が存在するようになりますが、それ自体は自分の中にも外にもありません。中と外の境界にあるだけで、触ることも近づくこともできません。
そして、この境界に存在する現実は、鏡のように自分を映し出すだけのもので、必ずしも誰かと同じものを知覚できるわけではありません。人間は、自分の中にあるものしか他者に見出すことはできない生き物だからです。


そろそろ本題に戻りましょう。
人というのは孤独なものです。そんなことはいまさらわたしが言うまでもないことです。
人は孤独なのに、他人の中に自分と同じ感情や情動を感じ、認めることがあります。それはもしかしたら自分の中にあるものの投影でしかなく、そう見えて当たり前のものなのかもしれませんが、それでも他人が自分と同じことを感じているということがわかるとうれしかったりしますし、それがないと、つまらなかったりします。
つまるところ、感情というのは、共感性の発露だということです。共感できること/できないことが、ポジティブ/ネガティブな発展を見せる、と。共感できるからポジティブ、という単純な相関ではありません。近親憎悪は、共感できるからネガティブの代表例です。まったく共感できない場合は、なんの感情も想起しないのかもしれないと思いつつ、それはむしろ恐怖に発展していくような気もするので、この辺は曖昧。
ともあれ、クオリアの問題がある。共感できたと感じたものが、本当に共感できたかどうかはわからない。だからこそ、エントリタイトルの通り、現実は虚構ということになりかねない。

クオリア - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A2

そもそも他人というものが本当に存在しているかどうかはわからないし、ここで定義された現実自体は他人が存在することを前提とはしていない。神様が創造した世界が神様の妄想ではないことは、誰にも保証できないからです。もしかしたら神様は自分が万能であることを知らず、自分が観察している相手が思い通りにならなかったとしても、思い通りにならないように操作しているだけなのかもしれない。
しかし、他人が存在していないと、「他人が存在している状態」を想像することはできないんです。「他人」という現象を想像することができないんです。こと「想像」という工程において、「無から有を想像する」ことはできません。過去に経験した何かを複合させて新しいものを想像することはできるし、あるいは経験したことを忘れてなにかを再想像することはできるかもしれませんが、真の意味で無から有を想像することはできない、とわたしは思います。まあ別に根拠ないんですけど。
たとえば「道」を歩いている時、特別に道を意識することはないと思いますけども、道が存在しないわけではありません。道というものを知っているけれど、特に意識せずに、ある時なにかの切っ掛けで道を意識した時に「道の再発見」が起こります。ここでは、「歩いている人」と「道」の関係があるにも関わらず、お互いがお互いの現実を認識していない、ということです。


最初に「他人」を知った時に他人が存在していたのは確かなことです。それでもいまあなたの前にいる人が本当に存在しているかどうかはわかりません。あなたの妄想の中にしか存在しない人かもしれない。
人の印象は第一印象で決まると言いますけども、あなたが第一印象で判断した相手の姿が、本当の相手の姿だとどうしてわかるんでしょうか。その第一印象が妄想ではないと、どうしてわかるんでしょうか。
そう考えると、「自分に見えているものが真実ではない」という前提は、ひどく重荷になることが多いですが、現実ってのはだいたいがそういうもんです。目の前にいらついている人がいたとして、その人がいつもいらついているのか、たまたまいやなことがあっていらついているのかは、付き合ってみないとわからないものです。
いっつもいらついている(ように見える)人がいたら、わたしは近づかないようにするとは思いますけどね。それもまた、わたしとそのいらついている人の間に発生した関係性という現実が、そういう結論を導き出したにすぎません。それはわたしから見た現実の姿で、いらついている人から見た現実とはなんの関係もないものなのです。
そして中途半端なまま次のエントリに続く。