想像される"物語"の孤立性

認知バイアスが大前提に押し出されますが、「読み手と語り手は物語を共有できない」という、当り前の話がちょっと気になりました。
着想元はこちらです。

TRPGと現代ファンタジーを愛する男のブログ:TRPGとは、無限の選択肢のあるノベルゲームである - livedoor Blog(ブログ)
http://blog.livedoor.jp/gensoyugi/archives/51505221.html

そして、上記の前提については、否定派が根強く存在するだろうし、それでいいと私は割り切ってます、ってところから始まります。

認知バイアス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%8D%E7%9F%A5%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%82%B9


まず着想元にある「無限の選択肢と無限のエンディング」という文言です。これを前後の文脈を無視して取り上げます。
私は常々、TRPGには自由はないしいらない、ということを考えています。TRPGCRPGの違いは、意志決定のプロセスにおいて、システムに押し付けられるか、自分で決断したと思えるかの違いにしかない、と思っているからです。
実社会(世界ではないです。社会です)において、我々は常に意志決定を行っていますが、そこに自由の余地はあまりありません。社会においては、人は孤立せずに他者との関係を持ち、ある程度は協調しなければならないために、いわゆる同調圧力が発生するからです。

同調圧力とは - はてなキーワード
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%B1%C4%B4%B0%B5%CE%CF

同調圧力の正否については問いません。存在の有無だけがこの場合は問題です。
同調圧力が存在する場合、そこには「自由」なんてものはありません。もしあったとしても、「自由な選択をしなければならない(したほうが自然だし当り前のことである)」という同調圧力で押しつけられた自由があるだけです。
意志決定に自由を感じるのは、各人の自由です。しかし実際問題として、本当にそれが自由なのかどうか、は考慮するべきだと思います。押しつけられた自由は、時として束縛よりも窮屈なものです。
自由がない場合、それはつまり「有限の選択肢」にしかなりません。社会という共同体において不利益にならない範囲という条件の元、擬似的に選択肢を与えられているにすぎないからです。条件の外にある選択肢を選ばないことができる、という論理展開もけっこうですが、ここではそれは欺瞞であるとします。選択することができる可能性がゼロの選択肢は、ないのと同じです。


翻って。
TRPGというのは小さな社会を作ります。作らないスタイルもあるかもしれませんが、ここではそれは例外とします。
小さな単位ではセッションを実施する卓から、大きな単位ではルール製作会社への絆、もっと大きなところではTRPGという言葉自体に対する絆などによって結びつけられた社会です。野球で例えるなら、特定の試合にかかわる絆から球団にかかわる絆、野球そのものに対する絆、という位置づけになるでしょうか。選手個人にかかわる絆もあるかもしれません。
(あえて絆と呼んでいますが、最初は信仰と書こうと思ってやめましたということを注記しておきます)
そこに社会という集団が形作られる以上、当然ながら同調圧力も発生します。上記した通り、自由(意志)と同調圧力は相性が悪いものです。そして、同調圧力は抑止力としても機能するために、同調圧力を否定、あるいは考慮外の要素として社会=TRPGを運営するのは、非常に危険になります。
同調圧力は言い換えればコンセンサスです。コンセンサスがとれていないために同調圧力が有効に機能しないことはあっても、同調圧力が存在しないことにはならず、その効力が生じることはないと考えるのには無理があるからです。
空気と言い換えてもかまいません。社会には、そうした曖昧模糊とした主体の存在しないなにか、魔物のようなものを発生させる機能があります。


さて、同調圧力は存在するが、それには主体がないと書きました。それはなぜか、ということに触れないと、本題に入れません。
他者については、常に「自分に理解できる側面」しか見えません。これが認知バイアスと言えるのかもしれませんが、単純に「自分に理解できないものは見えても理解できないから見えてないのといっしょ」ってことです。目の前にいきなりダークマターとかを投げ出されても、それがなんなのかはたぶんわからないでしょう。たとえとしては甚だ不適切ですが、おおざっぱにはそういうことです。
その場合、「自分から観測される他者」というのは何者でしょうか。「自分が理解できる他者の姿」であって、そこには「他者が認識している自分の姿」はありません。AとBという人が仮にいたとして、Aが理解するBは、B自身ではなくAが理解できるB’という虚像だ、ということです。そこにはBという主体はありません。
さらに言い換えるなら、B’はAとBの関係にのみ存在するペルソナである、ということにもなるかもしれません。この場合、B’を持っているのはBではなく、Aであるというのは興味深い点だと思ってます。

ペルソナ (心理学) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%8A_(%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6)

AがBの存在する場で行動を決定する時、「B(実際にはB’)ならこう考えるだろう」という推測を意志決定に反映させます。わかりやすく噛み砕くと、「Bはこうしたら不快に思うかもしれない(=そういうことはやめよう)」と考えたり、「Bはこうしたら楽しんでくれるかもしれない(=そうしよう)」と考えたりする、ということです。もちろん、AとBの関係がポジティブなものがネガティブなものかで快/不快と実行/非実行の関係は変化しますが、どちらにせよ、AはBの影響を受ける、ということです。
しかし、ここで言うBは、結局はAの中にしか存在しないB’です。AはBならこう理解してくれるだろうと考えて行動するかもしれませんが、それを実際に理解するのはBでありB’ではありません。そこには明確な乖離があります。
意志決定は同調圧力によってなされるかもしれませんが、同調圧力の主体は強いていえば主観者にしかなりません。空気を読む云々について、空気なんてないと以前書きましたが、それはそういうことです。Bが存在したとして、その存在を考慮せずにAが意志決定をしたとしても、それは別におかしなことではないし、結果として空気が読めていないということになるだけだ、ということです。この場合、Aにとって空気はないんです。あるいはAの理解するB’が、Bとあまりにも乖離している、ってところでしょうか。
もっとも、空気がないとしてしまうと話にならないし、前提も崩れてしまうので、「空気はある=同調圧力は存在する」という前提で話を進めます。「AはBに対して気を遣うものである」という前提、と言い換えてもかまいません。


さて、ではSという物語があったとします。StoryのSという安直さです。
AとBは、GというGMの元、Sという物語をTRPGで体験した、とします。まあ別にGMはなくてもいいんですがTRPGっぽくするためにあえて定義します。
この場合、「AにとってのS」と「BにとってのS」と「GにとってのS」は、まったく異なります。それぞれが見るSというのは、それぞれが理解するS’という虚像に過ぎないからです。そしてここが一番肝心なところですが、それぞれはS’は理解できるにも関わらず、その実体であるSは存在しません。まるで空気のように。
結果として、エントリタイトルの通り、「想像される"物語"の孤立性」が発生します。Sは存在せず、それぞれが勝手にS’のみを理解しているからです。
そのため、「読み手(=PL)と語り手(=GM)は物語を共有できない」ということになります。読み手と語り手の中身が入れ替わっても、両方ともPLでも問題はありません。結局は誰もが勝手にS’しか理解していないからです。


これは、体験の意味付けをしようとするとそうなる、というだけです。理解というものが主観者/主体者に根付いた行為でしかない、ということです。
たとえばヘクスマップを使って戦況を客観的に理解できるようにしたとしましょう。それは場の状況、駒の状況を整理しただけであって、指し手(=PL)の意味付けを表現しているわけではありません。戦士がオークと向かい合っていたからといって、危険と理解するか楽勝と理解するかはPL次第です。
そして、他者の理解を制御することは厳密にはできません。たとえば雑魚敵をいきなり出したとして、敵が出たからとパニックになる人もいれば、なんだ雑魚かと冷静に対処する人もいるだろうし、そう判断するだろうという推測はできても、推測にしかならないということです。
ベテランプレイヤに雑魚敵を出したら簡単に倒してくれるだろうと思ったら、ベテランプレイヤが深読みを初めて全然手を出してくれなかったとか、そういうことです。
それは、言い換えれば、他者の楽しみを考えてあげる必要は厳密にはないということです。誰がなにが楽しいのかはわからないんですから、物語Sを遊ぶ過程で、楽しそうな反応をしたらその点を強調すればいいし、つまらなさそうな反応をしたらやめればいいんです。事後にしか確認できない以上、事前に悩んでもしょうがないということです。
事前にリサーチして、楽しんでもらおうとするのは大事な姿勢ですし、シナリオをきちんと作るっていうのはそういうことだと思いますけどね。