他人に対してひとつの評価しか持てないのは、自己の投影に過ぎないからではないか?

タイトルオンリーにして締めちゃおうかなという誘惑に駆られました。
「世の中を見る」という行為は、どのような形を伴うものだろうか、と。単に街に出ましたウィンドウショッピングしたり人間観察したり店員と他愛もない会話をしました。それもまあ、世の中を見に行っている行為だとは思うんですが、そこで得るもの・得られるものと得ることのできないものの落差に存在する「着眼点」はなんだろうか、とふと思い立ったわけです。
「傍観」と「観察」の視座の差、という表現になるのかも。

ぼうかん ばうくわん 0 【傍観】 - goo 辞書
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?kind=jn&mode=0&MT=%CB%B5%B4%D1

かんさつ くわん― 0 【観察】 - goo 辞書
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?kind=jn&mode=0&MT=%B4%D1%BB%A1


でまあ、結局のところは観察というのは裏返せば「なにを見出すことができるか」ということに過ぎないんじゃないだろうか、と思ったわけです。「なにを見るか」つまりは観察対象がどうなのかではなく、観察対象からなにを見出すのか。
で、思い出したのがこの映画。

海の上のピアニスト - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E3%81%AE%E4%B8%8A%E3%81%AE%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%88

1900がピアノを弾くときに、その場にいた見知らぬ他人の人生を想像し、それに合わせた曲を即興で奏でる、というようなシーンがありました。
彼がその時なにを見ていたか、を想像すると、「この人はこういう人なんじゃないか、いやもしかしたらこういう人かもしれない、いやきっとこういう人じゃないだろうか」ということを考えていたんじゃないだろうか、と思ったわけです。
いろいろな「可能性」を想像し、その中で(おそらくは)恣意的に選択された設定を「採用」する。その結果が曲となる。
私は、この時に「捨てられた可能性」もまた、成果物としての「曲」に含まれたんじゃないだろうか、と思います。人間は多面的な生き物ですし、音楽だって多面的なものだろうと思うからです。人間はいくつものペルソナを抱えているでしょうし、いま表面に出ていないペルソナがいま表面に出ているペルソナに影響を与えることもあるだろう、と。

ペルソナ (心理学) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%8A_(%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6)

多面的であることが良い、ということもあるかもしれませんが、多面的な生き物であることが深い、ということが言いたいだけで、でまあこれがTRPGにどう接続されるかと言えば、「多面的なキャラクターのほうが(人物像として)深い」というだけのことです。
重要なのは、こと「ゲーム」の盤上においては、そんな奥深さはいらんというか、さほど重視する必然性はないちゅーことです。前言を翻すようですが、私はそんな深さは害になりやすいとすら思います。
それでも私はそういうのが好きです、というのは、業と言ってもいいのかもしれないし、ただの偏執なのかもしれない。まあその辺は私を知る人が好きに判断してくれればいいんじゃないかなと。私がペシミストなのかオプティミストなのかは、私を知る人にしかわからないし、わかってる人には、私がなにを言っても意味はありませんので。
矛盾した言説は、矛盾しすぎなきゃいいやというのが最近の楽観視です。


そんでもって、人間観察においては、「自分にはないもの」をどのようにして見出すか、という根本的問題があるように思います。
つまり、「認識できていないものを認識できるようになる」ために必要なものがあり、それがなければ「自分にはないものを見出すことはできない」のではないか、ということです。表現力が乏しいので「必要なもの」とか書いちゃってますけど、それは具体的手法だったり心構えだったり、抽象的な何かだと思ってます。
私の心構えとしては、「他人の意見を疑わない」「他人の意見は虚心で聞く」あたりかなあ、と思ってます。これはつまり、見るだけじゃなくて、話さないとわかんないよね、ということでもあります。
最近、テレビとか見ながらあれこれ言い合う機会が増えたんですが、感性は必ずしも噛み合うものではないので、別の意見が聞けたりします。それを「とりあえず受け入れるという姿勢」を私は意識してます。受け入れるためには、まず相手に提示してもらう必要があり、相手に提示してもらうためには、コミュニケーションが必要になると。


さて、そうして「自分にはないものを認識できるようになった」時になにが起こるのか、ということです。

フリードリヒ・ニーチェ - Wikiquote
http://ja.wikiquote.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7

怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。

異化 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E5%8C%96

日常とは異なる表現を与え、非日常に一旦意識を落とし込むことによって、却って日常のリアリティを生々しく喚起させることを目的とした行為、作用。芸術や文学、哲学や心理学などで使われ、一定の効果が認められるが、多用すると今度は非日常が日常となってしまうために、効果がなくなる。

常に同化が行われる結果として、観察を持続し続けることは非常に困難である、と。
いや、ほんとは「自己定義の曖昧さ」とか「異化同化による変質あるいは進化」とか「認識論」とかそういう方向にもってきたかったんですが、まとまらなかったのでやめました。