空気を読まない空気を読まない空気

言葉遊びであり、思考実験でもあるんですが、だからといって無駄ではないと思います。
大雑把に状況を定義します。
「空気を読めるA」と「空気を読みたくないB」がいて、Bはなにがあっても空気を読みたくないわけですが、空気を読めるAはBに対して「空気を読め」と注意したとします。
果たしてAはBの「空気を読みたくない空気」を本当に読めてると言えるのか? ってことです。


この思考実験の肝は、「空気を読むのが善であり正しい」という観念を無批判に取り入れていいものかどうか、ということだと思います。Aの行動の正当性は、「空気を読むことが必要であるという大前提をまず受け入れる」ことを要求するからです。
その前提がない限り、Bが空気を読まないことを批判する根拠はありません。そうしたいからそうしているのであれば、Aが空気を読みたくてそうしているように、Bは空気を読みたくないからそうしているだけです。
それはただの感情論で、AにもBにも合理性も論理性も説得性もありません。


ここにさらなる仮定を導入してみましょう。
「Bは空気を読まないことによる弊害があることをまったく理解していない」とした場合。つまり、「B以外は空気を読むことは有意義だからそうしている」という状況の場合、Bにとっては空気を読むことにメリットがないからそうしていない場合、問題点は「Bが空気を読むメリットを知らないこと」にシフトします。
できるかどうかは別問題ですが、あえて空気を読まないようにするのであれば、空気を読まないようにするだけの理由があるはずです。そこまで明確な理由がなくとも、いままでやっていなかったことをなんの説明もなしにやれと言われたら、反発ぐらいは出るもんじゃないでしょうか。
「空気を読むことのメリットをプレゼンできるかどうか」が、Bが空気を読むようになるかどうかの鍵、ということになります。


さて、この時点で問題がメタ化してしまっています。
「「空気を読む」空気を読む」かどうか、ということになっているからです。
つまり、事前に「空気を読むのはいいことなのでそうしましょう」とやらない限りは、「空気を読むのはいいことなのでそうしましょう」という空気を読まない限りはその必要性には気づかない、ということです。
そして実際のセッションの場において横行しているのは、こうした「空気を読むのはいいことだ」という暗黙の前提を無了解の元に肯定している状況ではないでしょうか。それはそれでかまいませんが、それには必ず留保が必要なはずです。「空気を読むのはいいことだが、それができない人もいる」ということです。


「空気を読めなければならない」と言いだす人には要注意だと思っています。そういうことを言いだす人は、大概空気を読めていません。
必要なのは、「空気は読めたほうがいい、だができない人もいる」ということであり、できない人はなぜできないのかではなく、できない場合はどういったデメリットがあって、それにはどう対処すればいいのかを考えるほうが先決ではないでしょうか。
いま現在空気を読めない人が、一朝一夕で読めるようになれるとは思えません。そこには努力も時間も必要でしょう。であれば、そうした努力の時間の間、空気が読めないことをフォローすることこそが必要であり、空気を読むための方法論は、その先、その後にしかないんじゃないでしょうか。