ハードウェアとソフトウェア、TRPGにおいては

こちらのエントリで曖昧になってたことの整理から。
無駄に長いです。あと、おそらくid:ggincさんとid:koutyalemonさんの後追いな内容なんじゃないかという気がしてます。自分なりに言い換えただけみたいな。

ゲーム上における学習の位置づけ - TRPG履歴
http://d.hatena.ne.jp/standby/20091017/p1

まず、id:acceleratorさんにお勧めいただいた記事を取り上げるところから。

アーチテクチャーとして理解するTRPGの諸構造 - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む
http://d.hatena.ne.jp/accelerator/20090711/p1

ここでいう「アーチテクチャー」というのは、「人間」というハードウェアが持つ特性をシステムに盛り込むことにより、よりシステムの意図を強化することを目的としている(ただし人間の行動の制御まではしないしできない)、と勝手に読み替えました。すみませんだいぶ斜め読みしました。
ではTRPGでいう「システム」と「アーチテクチャー」はなんなのか、というのが今回の話のメインです。

先のエントリの整理:二種類のシステム

まず、先のエントリで上げた「二種類のシステム」として、ハードウェアとソフトウェアについて整理します。
CRPGにおいては、例えば「ファミコン」というハードウェアがあります。そこには、例えば「ドラゴンクエスト」というソフトウェアがあります。
TRPGにおいては、「人間」というハードウェアがあります。そこには、例えば「エンゼルギア」というソフトウェアがあったとしましょう。
ソフトウェアである「ドラゴンクエスト」は、ハードウェアである「ファミコン」上で実現可能な形で構築されています。言い方を変えます。「ファミコン」というハードウェアの制約上に、「ドラゴンクエスト」というシステムが再構築されています。
同じように、「エンゼルギア」は、「人間」が実現可能な形で構築されています。「人間」というハードウェアの制約上に、「エンゼルギア」というシステムが再構築されています。


「ソフトウェア」は、「ハードウェア」の制約上にしか存在しません。「ハードウェア」という「システム」の制約上に、「ソフトウェア」としての「システム」が入れ子構造になっています。
先のエントリで私は、ここで言う「ソフトウェア」の「システム」デザインの意図について、利用者が汲み取る必要はない、としました。ドラゴンクエスト、あるいはエンゼルギアをどう遊ぼうとも、それは利用者の自由である、と。
しかし一方で、「ファミコン」あるいは「人間」というハードウェアの制約については、特に言及していませんでした。この辺が曖昧だったがために、右往左往した文章になっていたので、整理させていただきたいと思います。


また、TRPGにおいては、ハードウェアが「人間」であるために、再構築されるソフトウェアの状態に恣意性が介在する、というのを、別のエントリで取り上げました。

選択における恣意性 - TRPG履歴
http://d.hatena.ne.jp/standby/20091016/p1

基本的にはそれは、なんらかのシステム、ソードワールドであるとかダブルクロスであるとかエンゼルギアであるとか、そうしたものを選択した時点で漠然と方向づけられているように感じますが、実際にはそれぞれのシステムにおいて、参加者自身が意識する要素はシステム全体の一部に過ぎないだろう、と言えます。
どんなシステムであれ完全には把握できませんし、どんなシステムであれ、理解できる要素を理解しようとするものだからです。


ハードウェアとソフトウェアの関係においては、ハードウェアはソフトウェアを制約はしても規定はしない以上、ソフトウェアはハードウェアからは自由であり、ソフトウェアの利用者もまた、ソフトウェアが利用方法を制約しても規定しないために自由である、というのが、先の論の論旨であり、整理です。
整理としては、これでだいぶすっきりしたんじゃないかと思います。
そして、ここでいうソフトウェアが、アーチテクチャーを実装する領域です。

先のエントリの整理:二種類の操作性

「操作性」というよりは「操作系」、入出力装置としてのインターフェースにも二種類あります。
それは、「ハードウェア(提供者)が提供する入出力装置」と、「利用者が使用する入出力装置」です。


ファミコンの例で細かく説明します。
ファミコンが提供するのは、「映像」「音声」「コントローラー(十字キーやA・Bボタン)」です。これらを統括するCPUやメモリ、基盤や電子回路なんかについては、ここでは省略します。
利用者が使用するのは、「目」「耳」「指」です。脳とか筋肉とか神経とかそういうのは省略です。
これらの操作系を相互接続するのが「ドラゴンクエスト」のようなソフトウェアです。二つの系を接続するソフトウェアは、二つの系について理解している必要があります。
ハードウェアであるファミコンの設計が、利用者である人間の特性に基づいて設計されている場合、ソフトウェアが橋渡ししなければいけないことは少なくなるでしょうが、それは系の理解に基づいた話であって、それぞれの系の特性は無視されません。
しかし、ファミコンというハードウェアが持つ操作系の制約が、ソフトウェアが果たさなければならない機能を限定化し、それが利用者の学習を容易にすることに寄与している、とは言えると思います。


TRPGにおいては、基本的にオフラインでの対面式でのセッションを想定しますが、「五感のすべて」(嗅覚は除外されるかもしれない)がインターフェースとして提供され、またインターフェースとして利用されます。これは可動域が広く、また応用性にも富んでいるために、使途の限定がしづらいものです。
両者の橋渡しとして、現状のソフトウェアが提供できるものはあまり多くはなく、ルールブック及びその記述、キャラクターシートと筆記具、ランダマイザ(ダイスやカード)ぐらいでしょうか。
TRPGにおいては、ハードウェアの操作系の性能を、ソフトウェアが十分に発揮させられない、という制約があります。一方のCRPGにおいては、ハードウェアの操作系の性能を、ソフトウェアが十二分に発揮させられる場合があります。これは、ハードウェアの性能の差異によるものであって、一概にソフトウェアの出来不出来とは関係しません。


人間というのは、大雑把に言ってしまえば、PS3XBOX360wiiよりも大きな表現力を持っているハードウェアです。なによりも高度なインタラクティブ性を持っています。ソフトウェアはどうしてもその性能を(結果的に)限定して、利用者のハードウェア性能すらも(結果的に)制限して、提供者と利用者の橋渡しをせざるをえません。CRPGであれば提供者のハードウェア性能の制約に利用者も引きずられますが、TRPGにおいてはこの不均衡はないからこそ、別の問題が発生するわけです。
それらの制約によって提供者と利用者の性能を同一とした上でなら、マリオ型TRPGは実現可能だ、と私は考えます。それは、ソフトウェアが再構築したシステムが、提供者と利用者の接続を同じレベルで可能にするという前提の上での話です。

シナリオの意味するところ

マリオワールドの優れた学習性というのは、ステージ構成というシナリオがもたらすものであり、それはソフトウェアが再構築したシステムと一体化したシナリオだからこそ提供可能なものである、と考えます。ソフトウェア上のシステムリソースをすべて余すところなく活用できるからこそ、実現可能である、と。
TRPGにおいては、ソフトウェア上のシステムリソースをすべて余すところなく活用できるかどうかは、提供者、仮にGMとしますが(実際には参加者全員ですが)、その性能あるいは手腕によってある程度は左右されてしまう。ルール適用の誤謬などの問題がある以上、不可能であるとすら言える。


しかし、少なくともソフトウェア設計者は、シナリオを記述することもできる以上、マリオ型TRPGの可能性を提供することはできる。それはなにひとつ成果を保証しないが、成果は参加者が構築するものである以上、ソフトウェア設計者は保証することができない。
そして、利用者はそれを認識していなければならない。システム自体がなにひとつ成果を保証しないしできないという認識に立った上でなら、マリオ型TRPGを参加者が自ら構築していかなければならないことは自明であるから。


逆説的には、マリオ型TRPGにおいては、リテラシーゼロで始めることはできても、リテラシーゼロのままではいられないとも言える。それは、結局のところ、マリオ型TRPGによって(自然に)学習している、という状態と等しい。
システムがその状態を提供することは、どう解釈されるかもわからないシナリオという形に依らざるをえない。
そこで失敗しているシステムは、もしかしたらシステムの体をなしていない、のかもしれません。

で、つまり?

なんか整理してたら満足しちゃったんで、特に書きたいことはありません。id:ggincさんの言いたいこととか、大体そんな感じなのかなーとぼんやりとわかったぐらいです。
TRPGを遊ぶ時、メタなレベルでの合意を形成し、目的(提供者と利用者を橋渡しするソフトウェアシステム)を明確化するという手続きを規格化する必要がある、のかも。ぐらいです。
まあ規格からの逸脱は自由なわけですが、逸脱するための規格ぐらいはあってもいんじゃないかなってところで。