「ルールいらない」についてのひとりごと

思い付きをだらだら書いてるだけなので、論理的整合性とかはほとんど考慮しないでお読みください。突っ込みどころは満載です。


「ルールいらない」が適用されるのは、「TRPG」そして「セッション」の目的が(ある程度)明確に共有されたプレイグループにおいてであり、「TRPG」そのものにおいてルールが不要になるということはありえない、というのをまず前提にします。
つまり、コンベンションのような「不特定多数のプレイヤが集まってセッションを行う」場面を想定した場合、そこには共通理解の媒介としてのルールは確実に必要になる、ということであり、サークル活動のような「特定のプレイヤが集まってセッションを行う」場面においては、ルールを介さない共通理解が可能な場合、ルールは特に必要とされるものではない、ということです。
「共通理解」という概念というか観念を中心としてルールの要不要を整理すると、まあ大体そんな感じかな、ということになります。野球やサッカーのルールが整備されていて、それが遵守されるのは、プレイの公平性ということもありますが、プレイの閲覧者を含んだ「試合」という環境の総体としての共通理解が必要とされるから、というような。


しかし「ルールいらない」というのはレトリックというかトートロジーというか、「明文法はいらない」という程度の意味合いでしかなく、「共通理解」という形での(より抽象的な)ルールは、これまた確実に存在しているわけです。
コミュニケーションというのは、理解してもらおうとする努力と共に、理解しようとする努力も要請するものであり、そうした相互の歩み寄りが存在しない限りは成立しませんが、それは理解のための(時に客観的な価値を伴う、合意された)フレームワークの整備を必要とし、TRPGという盤上においては、ルールという形で回収される構造になっているわけです。ゲームだから。
「ルールに関する合意がある」という暗黙の前提を踏まえるのも、「抽象的な共通理解に関する合意がある」という暗黙の前提を踏まえるのも、「コミュニケーションの成立」という目的の下には同じになる。「ルールいらない」というのは、つまり、その程度の意味でしかない。大したもんじゃないというか、「同じ業界の人なら業界用語でも会話が成立する」と言っているのに等しいわけです。それは「別のルールがある」と言っているのにも等しい。


「明文化されないルール」としての共通理解を取り上げた場合、その位置付けは、ゲームという場面よりも日常生活の場面により近くなります。ゲーム上のルールというのは、そのゲームに関してのみ意味を持つ、という含意があるからです。日常生活のルールというのは、必ずしも場面が特定されないものであり、状況に応じた判断と適用が求められます。「きちんとした格好」という言葉の意味は共有されていても、どのような格好がきちんとした格好なのかは場面に応じる、というような形で。
明文化されたルール(上記の例で言う「きちんとした格好をする」)がもっとも苦手とする抽象的な状況の処理に対して、「明文化されないルール」=抽象的なルールは優位性を発揮します。デジタルなパソコンの処理とアナログ(的)な脳による処理の差のような形で。定型処理はパソコンのほうが得意でも非定型処理は人間のほうが得意、というような(あくまでも現状においては、かもしれませんが)。そしてTRPGのルールというのは、概して「明文化されないルール」に性質として近似してくる。それはなぜか。
「明文化されないルール」は、同じ状況に対して別の処理をすることを容認します。必ずそうしなければならないわけでもありません。同じように処理してもいいし、処理しなくてもいい。それこそ日常と対比して考えるなら、基本的には同じように処理するけれど、さまざまな(特定できないほどの種類の)条件が加味された場合に、条件に応じた処理を(「明文化されないルール」に基づいて)行うことができる。
通常は赤信号は守るけれど、緊急車両は守らなくてもいい場合がある、というような感じです。緊急時には赤信号を守らなくてはいいと言っても、青信号で渡っている車両とぶつかっていいわけではない、という微妙な判断を下せるように。ルールを堅守しようとした場合、「緊急車両がいる場合」は必ず一般車両は停止して道を譲っている、という状況が暗黙の了解になりますが、実際には「緊急車両に気づかない」というような想定外の状況が発生します。
これらの状況を明文化するのは、実質、無理です。ある程度抽象化しなければ記述できない。記述しきれない状況というものが発生する。だからこそ明文化しない、という選択肢を取らざるをえない。


そうなると、ルールの明文化というものには、3種類が想定されることになります。「ルールを明文化する」「ルールを明文化しない」「ルールを明文化できない」の3種類です。
「ルールを明文化する」というのは、ルールとしての記述が可能であり、これを記述することが有意義(有価値)である、ということでもある。
「ルールを明文化しない」というのは、ルールとしての記述は可能だが、これを記述することが無意義(無価値)であり、時には弊害をもたらす、ということでもある。
「ルールを明文化できない」というのは、そもそもルールとしての記述が不可能である(言語化不能であったり、明文化というほどには具体化できないなど)、ということになる。
TRPGのルールブックでは、明文化する手法と明文化しない手法を使い分けた上で、明文化できない領域には立ち入らない、というマナー(のようなもの)があるように思えます。原則を明文化する手法で、個別具体事例に応じて処理すべきことは明文化しない手法で、解釈の余地を残して自由度を担保している、と。
明文化できないものはそもそも記述されえないのでどうしようもないですが、しかし意味の生成においてはこの明文化できないものが占めるウェイトは無視できないほどに大きいのではないか。そうした明文化できないルールの間隙を埋めるのが「世界観」の役割であり、ルールの原則のバックグラウンドとなる倫理や哲学を付与している、と考えると、ルールと世界観がワンセットになっていることに意義を見出すことができます。
GURPSが背景世界に合わせてカスタムしないと結局はその汎用性を発揮できないように、文明レベルや政治状況や経済状況に応じた千差万別な環境を表現できたとしてもチューニングするのは背景世界に任されます。棒状の武器で攻撃するっていってもそれは棍棒なのか鉄剣なのかライトセイバーなのか、というのは、背景世界に依存する問題であって、攻撃のルールに依存する問題ではなく、場面の意味の(再)生成を行うのは、ルールではなく攻撃の媒介となる武器の性質になります。

個人的な感想ですが、データが増加しまくってる類のゲーム、アリアンロッドアルシャードエンゼルギアソードワールド2.0(最近のだとそれぐらいしか知らないだけだけど)なんかは、ルールが世界観を裏切る(矛盾する)方向へのデータ拡張がかしましく、結果的に世界観をぼやけさせているという構造があると思います。データに意味を付与するための世界観が、データによって意味を飽和させられている、というような。
果たしてそれは、なんのための世界観であり、なんのためのデータなのか、ということであり、そしてまた、プレイヤはユーザレベルにおいて、こうした世界観やデータをそれぞれの環境にマッチングするように取捨選択することによってカスタマイズしていくことが必要である、ということも内包しているように思います。
最初期に提示された世界観が絶対である、というわけでもなく、拡張された世界観によって個々人が認識できる世界の断片が重ならない、つまりそれぞれが独自にまったく別の世界の側面を見ているだけになる、というようなことになると、前述した意味の生成を行う装置としての世界観の意味を棄却する効果しかないんじゃないか、という疑問です。
倫理や哲学を共有させられない世界観と、それによって生じる行動上の摩擦を吸収するのではなく投げっぱにする構造、というのは、果たしてユーザライクなのか。
まあ、データマニアはデータが多ければ正義でしょうが、データ自体が意味を生成することにもっとも組しているのはそうしたデータマニアでもあり、世界観がそれを統合できなくなった時に訪れる意味の破綻は、しかしデータマニアがデータマニアであるがゆえに意識されないものでもあるのかもしれません。
データマニアの暴走は、意味の破綻を招来するが、意味が破綻したところで、データマニアにはなんらの痛痒も与えられない。かつて意味のあった世界の残骸に戯れて遊ぶというのは、どことなくメキシコの死者の日を思い起こさせるものでもあります。


要約としては下記のような感じ。長いわりに中身がない。

  • 「ルールいらない」というのは、「共通理解」を否定するものではないということ。
  • 共通理解は、ルールという形式に則ってもいいけれど、ルールだけでは共通理解を実現することができないということ。
  • 意味の生成を行う要素は多様だが、要素自体の破綻によって意味の生成装置自体が自壊することもあるんじゃないかなということ。