この朽ちたる身が願わずにはいられずに(10B)
「あなたが憎かったなら、殺さなかったでしょう。私はあなたが妬ましくて殺すんだ」
ヴィヴリオの置かれている状況、という意味でなら、私はよく理解している。理解しているつもりだ。作戦目標のことを執着的に調査することこそが、成功率を引き上げる。
その調査結果からすれば、いまここで殺すことよりも、生かしておいたほうがヴィヴリオ自身は苦しみ続けることになることはわかっている。
だから、ヴィヴリオに対するこのどうしようもない殺意は、憎悪に起因するものではなく、嫉妬に拠るものでしかなかった。
過去、同じ実験動物でありながら、現在、自由を得た女。自分と同じく、女としては生きられなかったとしても、自らの王として君臨する強い意志の持ち主。
どこまでもヴリルに操られ続ける自分にとって、その存在を消してしまわなければ気が狂ってしまいそうな相手が、ヴィヴリオだった。
皮肉なことに、ヴリルの連中にそんな嫉妬を抱いた覚えはない。連中は運命に支配され、それの命じるままに役割をこなす、自らの糸を操る操り人形だったから。
「好きにしろ。私を殺す意味を貴様がどう理解しているかは知らんが、私が私として生きていれば、そういうこともあるだろうさ」
言いながら、書類に視線を落とす。すでに私には興味を失った様子で。
違う、違う、そうじゃない。私はあなたに命乞いして欲しかっただけだ。必死に、哀れに、同情を誘う姿で、私に跪き、頭を垂れる姿が見たかっただけだ。
傲慢に、どこまでも傲慢に、運命に反逆することを選んだ者は、ただ静かに死を受け入れていた。
時間だけが流れていく。外界の喧騒から隔離されたかのようなこの部屋には、私が持ち込んだ混乱ですら、侵入できないようだった。
先ほど、自分が潜った扉が、ゆっくりと開いた。素早く身を翻し、扉の影に回りこむ。
姿を見せたのは、満身創痍の……怪我を負ってない部分が見当たらないほどの怪我を負ったヴィヴリオ直属の完全機械化兵、桜花だった。
桜花は、縋るような、願うような眼差しで、ただ必死に足を引きずり、ヴィヴリオに手を伸ばした。
ヴィヴリオは、その時初めて無表情の仮面を剥ぎ取られ、驚愕と混乱の眼差しを桜花に向けた。
桜花の側頭部に狙いをつけ、引き金を絞る。
銃声と金属音の不協和音が執務室に響き渡り、数秒の沈黙が降りた。
「……やはりこの銃では殺せませんな」
ヴィヴリオへの威嚇を目的として持ち込んだ銃は、隠密製には優れていたが、威力としては下の下の小口径の銃だった。
弾丸は狙いたがわず桜花の頭に命中したが、その頭蓋を保護する合金にあっさりと跳弾してしまった。
だが脳震盪を起こさせるには十分な威力だったのだろう、桜花は何一つ言葉を発することなく、床に沈んだ。
「わかっていて撃ったな?」
苛立ちが声に混じり、じんわりと優越感が広がる。
「完全機械化兵の弱点は、脳だ。天使核を操るためにはどうしても外せなかった、唯一の生体ユニットを破壊すれば、存外に脆い。……脳を破壊されれば、普通の人間でも死ぬが」
こいつらの弱点など、他の誰よりも私が知っている。私以外の実験材料どもが、どうして、どうやって死んでいったのかを知っている。
だからこそ、そんなわかりやすい弱点が強固に守られていることも知っている。
この距離から撃てば、死なないまでも、行動を停止させることは可能だということはわかっていた。
「こんなガラクタを作るために、私はこんな体にされたわけだ」
片腕で桜花を持ち上げ、ヴィヴリオのデスクに投げ飛ばす。完全機械化兵は、高密度な素材を使用している都合上、その外見とは裏腹に重いものだが、それこそ機械の体である自分には関係のない話である。
体を投げ出すようにデスクに突っ伏す桜花をちらりと見やって、ヴィヴリオは少しだけ頬を緩めた。
「……そのポンコツになにがあるんです?」
ヴィヴリオは自分だけの部下というようなものをほとんど作らない。手駒として使える人材の選別はしても、それを自分のものとして専有するようなことはしない。一部の例外を除いて。
その例外であるところの桜花には、いったいなにがあるのだろうか。それは以前から気になっていた。
「ポンコツだから……と言ったところで、お前にはわからんだろうな」
席を立ち、不自由な足を引くように歩き、桜花の体にそっと触れる。
体のあちこちの怪我……いや、損傷に、無表情のまま点検するように触れ、ヴィヴリオはそっと肩で息をついた。命に別状はないと確認したんだろう。
「私も規格外品だ」
ポケットからハンカチを取り出し、桜花の血塗れの顔を拭う。体内の機械を潤滑に動かすための擬似体液を赤い色に決めたやつは、度の過ぎた懐古主義者か、悪趣味な浪漫主義者に違いない。
「この足が悪いのは生まれつきで、どうも純粋天使のクローンというのはどこかしらに欠陥を抱えて生まれてくるようだが、これのせいでいろいろな目にあってきた」
丁寧に、丁寧に。死者を弔う荘厳さで。
「私が生まれたところでは、性交が可能になってすぐにそれが義務化される。そうやって天使核を育てることがあそこの目的であり……飼育場で育てられる豚と大差のない扱いで、私たちは兵士の慰みものにされ、され続けた」
ただの過去。言葉でしかない情景。
目の前に広がる惨状は、だからこれは、私の記憶でしかない。
どいつもこいつも私の顔をしながら、失ったはずの足を不自由に引きずって、顔のない男どもに蹂躙されている。
「大戦がある程度進んでくると、軍はますます増大し、増長し、研究するための研究に着手するようになり、犠牲者の数もそれと共に増加した」
誰もが狂っているんだと誰かが言った。名も知らぬその男は、研究所から逃げ出そうとして銃殺された。
「まともな人間は、生きていけない。そういう場所で生かされ続けた私は、すでに狂っているんだろう」
最後に唇を拭って、その痩躯で桜花を抱き上げたヴィヴリオは、静かに床に下ろした。
顔だけ見れば、まるで眠いっているような。死人にも似て見える、その表情。
「私が狂わされた責任を誰に負わせようとも思わん。だが、私のように狂った人間を生み出そうとするのを黙って見ているわけにはいかない」
狂気すらも飲み込んだ、ということか。戦争という言葉が支配する狂気をその身に背負わされたのだとしても、それを恨みはしないというのか。
それでも生きていることに感謝し、明日を望み、誰かの明日を守ることにしたその姿は、神よりも神々しく、人間よりも生々しく見えた。
他人は他人、自分は自分。言葉にすれば、そんな寂しいものであるはずなのに、こんなにも強く美しく見えるのはなぜなんだろう。
「貴様が望むのなら、私はお前を許す」
どくん、と鼓動が聞こえた。遠い昔に失った私の心臓が、頭の中で強く揺さぶられた。
「貴様が救われなければならないと言うのなら、私が貴様を救ってやろう」
どこまでも傲慢な。圧倒的な強者の言葉。
「そのまま身動きできずに圧死されるか、私の手をとって運命に抗うか。自分で決めるがいい」
手を貸すことはしても、救われたいと願わせはしない、ということか。救いを提示までしておいて、最後はお前が選べと、そう言うのか。
なんて残酷な。目の前にいままでずっと欲しがりたかったものをぶらさげられて、いまさら断れるとでも思っているのか。
「あなたもまた私を利用しようと言うのか」
震える手を……どうしても震えの収まらない手を、ゆっくりと上げる。
向けられた銃口から目を逸らさず。ヴィヴリオは静かに答えた。
「貴様が私を利用しても私は気にしない。そう言っているだけだ」
そうか、それこそが私のなりたかったものか、と目が覚める思いだった。
誰に何をされようとも、私は私だと自立すること。他者を頼らないのでも寄せ付けないのでもなく、あるがままを受け入れるということ。
自立は孤独との邂逅だと、誰かが言っていた。だからこそ触れ合う喜びがあるとも。
ヴィヴリオの一言で、私はようやく私になれた。そんな気がした。
銃口は定まらず、指一つ動かせずに、私はそこに立ち尽くし続けた。