失敗しないということについて

世間の風評として*1「セッションに失敗しないためには」という論調が多いよな、と前のエントリを書きながら思い、なんかもやもやしたんですけども。
失敗しないようにする、のは当然としても、実際問題、失敗しないか、というとそんなこともなく。私はいまだに月に一回ぐらい失敗してますが*2、でもそれでどうということもないよなあ、と思ったわけです。
他人の失敗には寛容に、自分の失敗には厳然と、というのが基本スタイルではありますが、それは別に責めたり責められたりするからではなくて、そうするのが自分のためだと思っているからにすぎません。利他主義ではなく利己主義から発生する利他です。しかしそれは(客観的には)区別つかないんでどっちでもいいことです。
失敗は次回に活かせばいい、というのは一面の真理ですが、「次回」というものが必ずあるとは限らないというのもまた事実でしょう。失敗したGMの卓に誰が好んで参加するんだろうか、と考えた時、嫌な感じがするのは誰でも同じじゃないでしょうか。
だから失敗を恐れる。それでも失敗は起こる。ジレンマですね。
サークルのような環境であるなら、失敗がストレスにならないような環境作りこそがまず大事なんだろうなあ、と思ったのでした。もちろん、マインドセッティングも含めて。
ま、人によって失敗の定義なんか千差万別なんで、考えすぎたっていいことはないんですが。


というようなことを書きながら、以前どっかでこんなエントリ書いたような気がするなあ、と思いつつ、昨日書いたことは基本的に忘れる脳の持ち主なので、以前のことはさっぱり覚えてません。
割り切りといえば割り切りでしょうけども、人間日々意見が変わって当たり前だとも思ってるんで、以前と違うこと言っててもおかしくないでしょう。
ただ、自分はともかく、「他人がなんの予兆もなく意見を変える」と、自己内の他人のミーム、観測対象でありながらも観測者である他人の同一性を担保できなくなるので不安になる人が出てくるのかな、とか思った。
道歩いてたってシナリオは思い浮かぶし、必死に原稿に向かってたってネタが出てくるわけでもない。それも人間性ってやつでしょう。だったら多少の変化は飲み込んでいくのがいい付き合いってもんじゃないでしょうか。
ま、多少の範囲は人それぞれでしょうけども。

*1:まあ自分の巡回してる範囲でしかありませんが

*2:最後までいかないことを「失敗」と定義した場合