セッションについて(11)

このシリーズは久しぶりですがこれで最終回にしようと思います。というか元から関連づいてないネタばっかりだったのをだらだらと関連エントリのように書き続けていたのを終わりにしようというだけですが。
というか結局「セッションをやった後に反省する」という主旨のネタなので、やらないと書かないという、ただそれだけのことなのでした。
そんなわけで、今回のテーマは「他人に仮託することによって裏切られる反応」です。わかりづらいわりに物々しいテーマ。


簡単に要約してしまうと、「GMがPCの登場頻度についてなんらかの調整機能を実施した場合、それは必然性を伴わない」ということです。
GMGMの視点から、いわゆる調停役として、「PCの出番はある程度均等に」といったバランス感覚を持ちます。PLの不公平感をなくすために、セッション後の後味を悪いものにしないために。
しかし実際のところ、それには必然性はありません。PCの行動に対して責任があるのはPLであって、GMではないのです。
こう言うと「シナリオで出番をサポートしなくてもいいということか」という極論にも繋がるかと思いますが、私はそれを肯定します。というよりは、そんなのは問題にかすりすらしていない要件として認識しています*1。「GMが出番を用意しようが用意しまいが、自分で出番を作るPLはPCを登場させるし、自分のPCの出番を抑制するPLは、PCを登場させない」からです。
これが、GMの視点と、PLの視点の齟齬です。「PLは必ずPCの出番で目立たせようとする」という妄想から生まれた齟齬です。もっと言えば、「PLの個性を無視した極論」です。
「PLのやりたいこと」は、「PCをシーンに登場させる」だったり「妄言を吐き散らす」だったり「他のPCのアシストをする」だったり、千差万別なわけです。「行動的に行動させる」ことと、「受動的に行動させる」ことは、それが別PLの要件であれば両立しますが、PL個人の中では基本的には両立しません。
「行動的なPC」のアクションを受けて「受動的なPC」がアクションを起こす。そういう図式がある場合、必ずしもGMがPC全体の登場頻度や発言頻度を調整できるわけではありません。GMが積極的にそうした図式を構築することはできたとしても、実際に成立した図式の中でGMが働きかけられることなどあまりありません。むしろそれをやった場合、GMGMとしてバランスを調整しているのではなく「余計なお節介をしている」にすぎません。
「沈黙」=「悪」のように捉えられ勝ちですが*2、PLの意図によっては、必ずしもその図式は成立しません。意味のある沈黙かもしれませんが、それは手段として沈黙を選ぶPLの口からあからさまに語られることはないでしょうから、実際には「判定不能」な事象でしかありません。不満があるの「かもしれない」に囚われてバランス調整を施そうとすると、つまり、リソースを余計にバランス調整に割こうとすると、必然的に他の部分に無理が出ます。
バランス調整を実施する前に、PLの意図をまず確認すべきです。それでも言えない人は言えないだろうし、説明できない人は説明できないでしょう。それでも、GMの意図をPLに押し付けるよりは、そのほうがなんぼかましだと、私は思います。
誰もが必ずしも自己主張できるわけではないし、GMは必ずしもそれを吸い上げることができるわけでもなければ、それを吸い上げなければならないわけでもないからです。


出番を与えなくていいとか、そういうことではありません。
ただ、GMがそれに腐心する必要はない、ということです。そんなことに腐心するぐらいなら、シナリオのストーリーやらNPCを魅力的にすることを考えていたほうが、セッションにおいては何倍も有用です。魅力的なストーリーやNPCは、PCの行動を引き出します。GMというのは、PCの行動に対して常にPLを通じて間接的にしか影響を与えられないのですから、PCよりはむしろPLに働きかけるほうが重要です。
ストーリーはPCが構成しますが、構築するのはGMとPLです。PLがPCをどのような立ち位置に置こうとも、それはPLの自由だ、ということです。
もちろん、シナリオの都合上、きちんと登場して発言してくれないと、展開的に困ったことになる、ということもあるでしょう。エンゼルギアは、そうした側面があります……パトスチットを稼いでロゴスを溜めないと、ラスボス戦に参加すらできないという側面が。
ただしそれは、あくまでも側面であって、本質ではないということです。

*1:だから肯定しても否定しても同値です

*2:オンラインセッションでは外部要素が関係してさらに意味が強調されますが